大学生の学力低下

大学の関係者が集まると必ず出る話題として、「最近うちの学生に・・・の話をしたらまったく分からなくて・・・」といった、大学教員たちの「今時の若いモンは・・・」的嘆き節は、確かによく聞く話です。


ところが、先週の朝日の夕刊で(10月6日号、ほんとに朝日はこうしたコラムを何とかちょっとの間でもサイトにアップしてくれるといいんですが・・・)、神戸大の五百旗頭真氏が「私がよく知るゼミの学生についていえば、ますます優秀になってきているように思う」と書いています。というのも、「今の院生は外国の公文書館へ自分で出かけ、オリジナルな資料を集めて、どうかすると世界の誰も到達していないところまで解明したりする」、つまり、「インフラがよくなっているので、伸びる機会を与えられる」からだというのです。


オリンピックの選手たちのことも書かれてあって、昔と違って、海外での高地トレーニングなども可能になったことなど、インフラの良さ、が世界水準に達する原動力だと見ています。多くの競技で、小学生時代から全国レベルの英才教育のような制度が取り入れられているのも昔とは違う面でしょう。「よきインフラを活用すれば、世界水準を超えることは難しくない」といえるでしょう。


このコラムの結びは、政府が長期派遣の留学制度を今年から新設したことを評価するところで終わっています。こうした充実したインフラを用いながら、またさらに、外国に出て競争の中でもまれることで、さらに優れたリーダーが育つだろう、とのことです。


普段私たちが目にすることがない大学の現場をよく表していて、面白いコラムだと思った反面で、私がこれを読んで気になるポイントは、確かに教育結果は多様化されてきたが、こうした整備されたインフラを活用できる人とできない人の間の格差がどんどん広がってきている現実もあるだろう、ということです。


自分の子どもが小学生なので、そのあたりの様子しか分かりませんが、最近の関東あたりの状況を見ると、東京・神奈川では(といっても地域によってばらつきがあるでしょうが)、公立小学校で半分かそれ以上の子どもが私立中学を受験する、という話を聞いたことがあります。うちの埼玉の方でも、もともと県立高校中心主義ですが、最近とみに県立高校の大学進学実績が急落し、私立志向が高まっているということです。


各私立中高は、少子化の中で必死になって、受験実績を高めたり、さまざまな学校の売りを創造している一方で、県立の有名進学校には最近は先生が行きたがらない、理由は受験指導が大変だから、というような話もあります。こうした公教育の劣化の流れが事実だとすると、教育の機会均等という面から非常に困難な状況が生まれてくると思います。


今の小学生の塾は私も知らないような日本史の問題を解いたりします。「そこまでやる必要があるのか?」と私などは思いますが、確かにそうした知識を基礎に(これは数学や物理でも顕著な気がします)、さらに中高で力を付け、大学で専門的な研究を始めれば、先の五百旗頭教授のいうように、「いいインフラを利用して、世界レベルの研究に邁進する」道が開けるようにも思います。


こうした「ちょっと詰め込みすぎ教育(という印象がぬぐえませんが)」が正しかったとして、ただ如何せん、このルートに乗るには、小学校の間塾に通わせ、中高を私立に通わせ・・・といった親の経済力が前提となるわけです。


例えば東大出の友人の中でも、ずっと公立で東大、という人が何人もいますが、今やそういう子どもは少ないのかもしれません。小学生の頃にこの「いいインフラ」を利用できる権利を早々に失ってしまい、それは未来永劫逆転不可能な「差」になることが、社会全体としての活力のようなものを著しく失わせるように思うのですが、この公教育の凋落はどこまで続くでしょうか?