「全事実性がすでに理論」

quelo42006-09-10



ベンヤミンの言葉だそうです。昨日に続きFACTA阿部重夫編集長ブログから引用です。「誰が新聞を殺したか3 ベンヤミンの光学」2006年09月04日


この中で「モスクワ日記」には次のようなフレーズがあるのだそうです。(邦訳では『モスクワの冬』晶文社、または『ベンヤミン・コレクション 3/記憶への旅』ちくま学芸文庫〕)(また、ここら辺のベンヤミンのロシアでのようすは<水声通信>no.3 (2006年1月号)「ベンヤミンのロシア 《1》」に詳しい)

私の表現は理論というものを全く欠いたものになるでしょう。これまで私はこういう流儀で、完膚なきまでに変貌を遂げた環境の騒々しい仮面を通じて、轟々と鳴り響くこの極めて新しく混乱した言語を把握し、翻訳することに成功してきました。それと同じように生動するものそれ自体に語らせることに成功したいのです。私は「全事実性がすでに理論」という形で、現時点のモスクワの描写を書きおろしたい。それによって、一切の演繹的抽象を断ち切り、一切の予言を、ある限度内では一切の価値判断を遮断するのです??それら全ては、この場合、精神的「データ」の土台の上では公式化されえない、と私は確信しています。ロシアでさえも、十分に広く熟知している人などほとんどいない経済的ファクツの土台の上にのみ、それは公式化されるのです。

「生動するものそれ自体に語らせ」「一切の演繹的抽象を断ち切り」「全事実性がすでに理論」という形で物事を描写する、ということ。科学的合理主義、啓蒙思想に対するアンチテーゼとして明確です。はたまた、ジャーナリズムの記述性としても大変基礎となる考え方ではないかと思います。


以前、「朝日新聞紙面審議会」で白石隆氏が、格差が広がり社会に中流がいなくなった、と主張する連載、「分裂にっぽん」について、「まず、ケースの積み重ね、という手法に限界がある。ケースはいくら積み重ねても分析にはならず、ただ印象ができるだけだ。論理的な思考を助けることにならない。新聞のテクニックとしては理解できるが、多用し過ぎた。逆に、高島平の所得分布や世帯構成などマクロのデータがなかったために、一面的な報道になってしまった」と書いていた。(朝日、2006年3月31日朝刊15面)
しかしですよ、新聞は「事実の積み重ね」しか書けない。基本的に記者は記述的に徹するしかない。規範的に意見を書くことはできない。その積み重ねによってこちらの言いたいことを伝えたいし、積み重ねから読者は何かを読み取る、のだと思う。アカデミズムとして理論を提示したい気持ちは分かるが、ジャーナリズムはその手前の記述を丁寧に積み重ねるのが仕事ではないか、と思います。それが上の、「生動するものそれ自体に語らせ」ることになるんじゃないかなぁ。
わが業界紙にも、もっと意見を述べよ、という、特に左右に大きく別れた人たちが主張しますが、イデオロギー以前に、新聞の社会的機能を見誤ってるんじゃないか、というのが私の理解なのです。


ともかくも、ベンヤミン、面白そうです。別に新聞に限らず、いまのアカデミズムも、この路線を大事にしないと、多様性の中で拙速な理論化・公式化に安住してしまうミスを犯すのではないでしょうか。


一方で阿部編集長は、いまの新聞にもこれができてない、と批判しています。見たものを「常套句の鋳型にはめ込み」、「その光学は曇っている」と厳しい。どれだけ真実に近づけるか、キャパみたいです。