死刑は会議室で行われるんじゃない、現場で起きるんだ!(by青島刑事)

quelo42007-10-13



 キリスト教は社会の問題についてなかなか明確な発言ができなかったり、最新の科学的知見について、時代遅れな対応しかできなかったりしますが、こと死刑については、カトリックはかなり決断的な態度で反対しています。


 で、最近、某鳩山法相が乱数表で次に誰を死刑にするか決めたらいい、という適当な発言をしてひんしゅくを買いましたが鳩山法相「署名なしで死刑執行を」日経2007年9月25日鈴木宗男疑惑に絡む背任で逮捕された外務省の佐藤優さんが、刑務所に拘置されている間に出会った生の死刑囚の姿を、各所で語っています「【第1章】 誰が主権者を吊るせるか? 二重の職人芸NikkeiBP 2007年9月6日「【第2章】 となりの死刑囚 1 確定者の髭剃り」2007年9月13日「【第3章】 となりの死刑囚 2 拘禁病の夜」2007年9月20日

佐藤優(まさる)さん↑


 聴き手の伊東乾が「佐藤さんが雑誌『創』誌上で『拘置所経験を通じて死刑廃止論者になった』とお書きになっているのを拝見して、ぜひお目にかかってお話をうかがいたいと思いました」というように、佐藤さんが東京拘置所に512日拘留されている間に出会った死刑囚たちの状況から死刑制度を考えさせられる文章です。まさに、死刑は現場で起きている!と叫びたくなる話。存置論者も廃止論者もよく心して読むべきです。

 イスラエルで死刑が廃止されているというのは、「死刑囚がかわいそうだ」というような情緒論ではなく、実は国権論から考えてのことなんです。死刑によって法秩序を維持するのは弱い国家だという意識があるからです。アイヒマンの処刑についてもイスラエル国家の弱さを示すものとイスラエルの知識人は認識しています。
 聖書には「汝、殺すことなかれ」とある。人が人を殺すことはいけないのだから、まして、国家が人を殺すことはいけないという思いが、私も塀の中で強くなったのは確かです。ただし、このような信仰に基づく個人的見解を初めから公共圏の討議に持ってくるのはカテゴリー違いだと思います。私は国家主義者です。従って、国権論の観点から見て、死刑は廃止すべきだと思うようになりました。

 同志社大の神学院卒の佐藤さんはクリスチャンだから死刑反対しているわけではない、というの、大事です。上のような考え方、「国の在りよう」の話です。美しかろうがなかろうが、誇りがあろうがなかろうが、最後に死刑がある、という国全体の法秩序がこれでいいのか? これでは未熟すぎるのではないか、という議論ですね。自分ではんこ押したくない、とだだをこねている法相、よく聞いた方がいいですね。この人もまた3世、前の首相ともども、わたしたち「Japan as No.1」世代には、耐えられない後ろ向きさです。


 もう一つ。実際の死刑囚との出会いも佐藤氏の死刑廃止論を加速したようです。死刑が確定してしまった人は、おおむねひどい様子。つまり、自分の死が目の前にぶら下がった人は、こころがすさんで当然ですから反省などする動機づけがなくなり、荒れた、状態になるようです。それ自体、被害者や遺族にとって、決していいことではないというのです。

佐藤 そうです。私の隣人というのは、30年以上前、共産主義革命を目指して大事件を起こした人です。もう少しはっきり言えば、名前を出せば誰でも知っている、連合赤軍の幹部だった人ですね。
 独房に居ると実感するんですが、人間というものは順応性が非常に高いんですね。東京拘置所で私の階には数人の死刑囚がいました。
 ある比較的最近刑が確定したと思われる死刑囚は最初、反発しているんだけど、だんだんと自分の置かれている環境に順応してしまって、拘置所の中でも、毎日、看守と冗談を言いながらそれなりに楽しそうに暮らすようになっている。そういう日常を私は知ることになったんです。
 例えば、4人を殺害した連続射殺犯の永山則夫さんはよく知られていますよね。永山さんの『無知の涙』や『木橋』を読むと、順応の雰囲気がよく出ています。ただ、読むとよく分かるのですが、永山さんには、自らの殺人に対する「反省機能」というものが全くない。
 1つの知的な世界にこもって、自己を充足させている。生命を絶たれるという恐ろしい現実があっても、死刑執行はある種の宿命だと封印して、過去の事件、自分が奪った命については考えないで、そういう行為を行った自己を徹底して合理化している。それは、すべての死刑囚の心理に相通じるもののように思います。実際、自ら望まない死を前にすると、人間は奇妙な合理化を図るのだと思いました。 ・・・


佐藤 ただ、永山則夫さんのように、死刑確定囚に自己の観念的な世界を作らせて、その中で満足させてしまうのは、被害者に対しても、遺族に対してもちょっと申し訳ないんじゃないかな、と思うんですね。
伊東 それは全くそう思います。
佐藤 いまの死刑制度は死刑囚に自分の罪を語らせないで終わってしまう。死刑囚を社会から隔離するのではなく、社会と向き合うことで自らの犯した犯罪について考えることを放棄できないような状況を作る必要があると私は思うのです。
 そこから、何らかの教訓を読み取って、同じ形態での殺人が繰り返されることを避けるための手がかりを得る。この努力を国家と社会が怠ってはなりません。


 こういう話を聞くと、単に、人は人を殺すべきでない、死刑は冤罪を回復不能にするから、といった廃止論も、微妙に頭のレベルの話に聞こえますし、ましてや、死刑によって凶悪犯罪が抑止できる、被害者感情への配慮、といった実証不能な超思い込みにいたっては、ケンカしてる子どもの捨てゼリフにしか聞こえません。
 アムネスティ・インターナショナルは、佐藤さんの話を聞く会を設けているようです。生の死刑囚の実体、よく見て、みんなでさぼらず死刑についてあらためて考えていきたいものです。


 翻って、鳩山法相は、死刑執行手続きの見直しを始めましたね鳩山法相「死刑制度の議論速やかに」日本経済新聞 - 2007年9月27日「法相が絡まなくても自動的に進むような方法を考えたらどうか」)。彼の最初の発言の理由づけは以下のようになります。

 鳩山法相は「死刑を受けるべき人間は執行されないといけないが、(法相は)誰だって判子をついて死刑を執行したいと思わない」と発言。執行の順番について「ベルトコンベヤーって言ってはいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば、次は誰かという議論にならない」と述べた。

 これ、ひとつの廃止論なんですね。実際に手を下す、囚人を殺してしまう看守の人は、もっと嫌でしょう。だから社会がそういう嫌な、手を汚すことを誰かに押しつけるようではいけない。だから死刑なんて廃止すべき、と。
 法相は高い給料もらっていてその権力を持っているわけだから責任もて、としか言えない。嫌なら辞めろ、とも。法相は自分のことしか考えてないでしょうが、自分が嫌なら、人も嫌じゃないか、って想像力がどうして働かないかなぁ・・・これも3世のせい?