朝日、論壇時評

我が家は朝日新聞をとっています。
昨日の夕刊の「論壇時評」で担当の藤原帰一氏が『論壇』の狭さと、議論のかみ合わなさについて書いています(2004年3月22日号、夕刊14面、〈朝日夕刊のコラムについては、オンラインで読めないようですね〉)。


かいつまんで言うと、彼が「論壇」として取り上げうるのは『世界』『中央公論』『正論』『諸君!』あたりのようです。『文藝春秋』のように「部数が増えるほど、論説によって読者を引き寄せる要素は薄れていく」という意味で、同誌に掲載される記事は「論壇」の議論とはみなせなくなってくるようです。そうした意味で「狭い」わけです。


議論が噛み合わない、という方がわたしのベルを鳴らす論述でした。上の4誌を見ても、「雑誌も読者も棲み分けているだけに、異なる意見を持つ人々が互いに議論することはない」というところは、教会内の議論にも当てはまります。最近のカト新の声欄で、教育基本法の改正についての是非が論じられましたが、やはり議論としては噛み合うところはありませんでした。


藤原氏が「現実追随と現実無視が向かい合う限り、読者にとって意味のある議論が生まれるはずもない」という批判がなにがしか当てはまっているように思います。わたしは右と左に分離した議論が嫌いです。とても不毛なことのように映るからです。そういう対立軸ではない、新たな切り口が今の現実に対して必要だと思っています。


では、どうした切り口があり得るのか?誰と話していけばいいのか? 私たちくらいの世代の人たちの中には、希望がもてる“妙な”人たちも結構いることが、少しずつ見えてきています。右か左か、といった単純化されたパースペクティブにはとらわれない、そうした人々と会っていきたいと思います。