右も左も(長文になってしまいました)

わたしは70年安保の時はまだ小学校に入ったばかりくらいですので、世の中、そう白か黒かで割り切れない、というところで生きていたような気がします。ポストモダンの世代でもあると思うんですね。世の中多様化していて、そう簡単に何が正しくて何が間違っているかなんて言えない(でも相対主義ではないんですよ、この道に通じている人なら誰でも、「すべてのものは相対的だ」という主張が正しいとすると、その主張自体も相対化されるので正しい場合とそうでない場合があって、「相対主義」なんてものはあり得ないんですね、たとえば、参照:富増 章成『空想哲学読本』)。でも、そう簡単に1つの正解は出なくても、共同体の中で正解に近づいていく営みがあることを尊重するんですよ。だから、聴き合わないと始まらない。聴かせるためには、誰かのせいにせずに、自分の意見を誠実に開陳するしかない。


「神」ワードで話す人たちは、そういう「権威」に裏書きされていることを強調しながら、「黙って俺の言うことを聞け!」(俺、に限らないはずですが、こう突っ張ってくるのはおっさんが多いのは、男の何かでしょうか?)と言ってるだけですよね。


自分も同じようなことをするおそれありですから、気をつけよ、と思いつつ、やっぱり真摯に自分の正直な気持ちを表していくしかないですよ。


ある倫理に関する文書で、「いのちに関わる問題は、すぐに答えが出るようなものでないものばかりだから、教師も生徒と共に学び合うことになる、そのためには、自分の気持ちを正直に出していかないといけない、たとえば教師が、『地域の人たちに迷惑をかけている暴走族の若者が、暴走によって事故死しても自業自得だ』と感じていたら、その気持ちを表現するところから始めなければ生徒と正直な対話にならない」、というようなことを書きました。

正直に話しても平行線、ということはあるでしょうが、お互いに影響を与え合うためには、変な権威付けでごり押しせずに、正直な気持ちをぶつけ合うしかないでしょうね。

こういうこと思うのは、今日ES細胞の是非を論ずる総合科学会議の議事録を読んだからかもしれません。