宮台真司のお話

quelo42004-08-07

さて、思い出したのですが、先週の木曜、新宗教連盟加盟教団やキリスト教諸派などが参加した、討論集会「いま平和を求めて−いのちと教育を問い直す」(主催・討論集会「いま平和を求めて」実行委員会)という集まりがありました。連続した第2回のようで、今回のメインスピーカーは都立大の社会学者、宮台真司さん。多分オーガナイザーであった東大、宗教学の島薗進氏や、司会が東工大、文化人類学の上田紀行氏と、なかなかの有名人が揃ったシンポジウムでした。


さて、件の宮台氏ですが、舌鋒鋭く、現代社会の教育と「いのちの大切さ」について、彼独自の処方箋を説いていました。ごくごく簡単に言うと、近代社会は「取り替え可能な社会」になるために、人も取り替え可能になる。また、近代化で多様化が進む中で、人々はその場面場面に応じた「自分」を作り出すようになり、精神医学でいう「解離」が進むが、しかし社会で成功していくためには、この場面場面に応じた「自分」を使い分ける人間が生き残るのが近代。職場でも学校でも、「ほんとの自分をもて」とは教えず、「相手や状況に合わせられる人間になれ」というメッセージが常に出されていて、実際そうした人間が成功している。


したがって、こうした「取り替え可能」で、「多重人格的にならないと生き残れない」近代社会の中で、「かけがえのない」存在を大事にし、解離する必要のない自分を大事にできるような、オルタナティブな社会に少しでもしていく工夫や調整が必要、というような話でした。歴史の中でこの実例として戦前のアジア主義、戦後の押収主義などがある、とのことでした。


どうでしょう、分かりますかねぇ。わたしも“まあまあ”理解している、ところだと思いますが・・・


なかなか納得できる話でした。ポストモダンな人と、そうでない人で、こうした見方への賛否は分かれると思いますけどね。新聞にはこんなに詳しく書けないのですが、ご興味のある方は、宮台さんの一連の著作をご覧ください。これ以外には「郊外化」というのも彼のキーワードの一つです。藤原和博さんとの共著『人生の教科書[よのなか]』も、なかなか面白いですよ。


彼の基本的な方法論は、社会科学は厳密な現状分析をし、現実に沿った認識をすること。そこで、一般通念と違う分析結果が出てもそれを忠実に実行すれば変更していくことは可能、ということです。「if〜、then〜」と言っていましたが、もし〜したいのなら、・・・すればいい、ということですね。以前『学校を救済せよ−自己決定能力養成プログラム 』にあった話で1例だと思いますが、「いじめはなくせる」と彼はいっていて、実際の学校現場での聞き取りの結果、クラスと授業の自由選択制をとったところ、いじめがなくなったという実験があるのだそうです。結局、いつも同じクラス仲間という閉塞感が、逃れ場のない陰湿ないじめを生むようです。「そんな単純じゃない」という声が聞こえそうですが、(もちろん万能ではないですが)ある一定条件で調査すれば、その状況である方策をとれば解決可能、という筋道は発見しうる、ということだと思いますが。


そういえば、宮台真司と東京にいるH神父は、しゃべり方が似ているなぁと思いました。なんか、油断するとおいていかれそうになるんですね。逆言うと、ことばの頭に「皆さんには分からないかもしれませんが・・・」という枕詞がついているような感じです。本人たちは一生懸命話してくれているのですが、舌鋒鋭すぎて、難解さが残り、もう少しわかりやすく説明してあげないと、伝わらないんじゃないかなぁ、折角いいこと言っているのに・・・という印象の残るシンポでした。(H神父の話は宗教家だけあって、もっとわかりやすいですけどね)