沢木耕太郎の「マラソン金」と村上龍の「マラソン金」

また、村上龍JMMについてですが、8月24日号で(やはり今日25日だけ読めます)村上龍編集長自身が、沢木耕太郎の朝日朝刊8月24日号にあったコラムについて、批評しています。(沢木耕太郎のコラムはWeb上では読むことができないようです、著作権の影響でしょうか?)


まず、沢木耕太郎を読んでない人のために、その「マルーシ通信」というコラムの要旨を書くと、マラソンで金をとった野口みずきについてのもので、彼女を含め日本人3人のランナーは「見えない敵」、つまり高橋尚子と戦ったのだ、というものでした。


村上編集長のコメントは、そんな裏話(=物語、と村上は呼びますが)は必要ないし、そうした負の裏話を書くことが現実を見えにくくする、というものです(この“負の物語”の例として、ジダンマルセイユの貧しい移民の子、ロナウジーニョはスラム出身、など)。「わたしはスポーツに物語を求めたくないし、物語を必要とする文脈への警戒を続けたいと考えている」と言っています。暗い過去があるからいまこうなっている、とは逆で、「信じられないようなスーパープレーによって、(観客もそのアスリート自身も)そのような生い立ちや物語から自由になることができる」と言います。


私はコンテクストにこだわる見方は賛成であり、日本の新たなコンテクストに対応したジャーナリズムの必要性をよく感じるので、村上龍がよく言う「マスメディアがおかれているコンテクスト」をどう見るか、どう変えられるか、は大事だと思い、賛成するところは多いのですが、どうも今回、「じゃ村上自身のコンテクストはどうなの?」と言いたくなるような、記事でした。


沢木氏の見方は「古い(=例えば戦後復興期の高度成長期にはこうした貧困から立ち上がる、と言う話が受けたような)」と言えそうですが、そうした「古い」一つのコンテクストの対応した見方であり、村上氏の見方も一つの別のコンテクストから見ている「にすぎない」と言えるものだと考えます。どちらにしても、自分の「コンテクスト」をある程度相対化しないとすれば(たとえそう意識していなくても絶対化してしまえば)、それが狭量な理解と対話不可能性を生み出してしまうと思います。


ディスコースという意味での「物語」からは誰も逃げることはできないので、沢木氏が一つの「物語」を物語っているのと同様、編集長も村上龍の「物語」を語っているわけです。読者の目の前には、その二つの「地平」が広がり、その地平が読者自身の「地平」と融合することで、新たな理解が生まれる、というのが私の考え方です。


せっかく編集長が多元化した社会を見極めるコンテクストをもてるよう、政府、メディアに訴え続けている中で、自分のコンテクストを絶対化しているかのような印象を与えてしまうのは残念だなと思います。


それにしても、沢木氏の貧乏くさい(とも言えると思いました)、お涙ちょうだい(確かにあの時点で野口に「走ってるときに高橋のことを思い出しましたか?}と質問したのは無神経だと思いました)なテーマ設定は確かにややうんざりですが、昔のNHK特集って、みんなこんなだったなぁ、と思ったり、このコラム、アスリート側に立った「平板的な人物ルポ」満載の『ナンバー』誌(文藝春秋社)っぽいな(斎藤美奈子の批評による)、と思ったり、いろいろ気づきのある編集長のコメントでした。


新聞も、人を浮き彫りにする特集記事は多いので、この両者の対決、なかなか考えさせられるものでした。