いまの時代、論理と感性と対話と

もう一つ、朝日のコラムから。

先週は早く帰った・・・これは書きましたね。もう一つ、朝日の土曜の夕刊に「文化・芸能」というコラムがあって、ここに書いてある文章、この人誰だろう?と思うほどなかなか秀逸です。何としても、朝日は夕刊のコラムをサイトにもアップして欲しい!(というのはどこに訴えたらいいのでしょう?)



10月9日の夕刊で藤生京子さん『HAPTIC 五感の覚醒』という本を紹介しています。ハプティックは「触覚的な」「触覚を喜ばせる」という意味だそうです。「ものの側を考えるのではなく、それを感じ取る感覚の側を注視するクリエーションの態度」を元にした本、またその実践の展覧会も開かれたそうです。隈研吾さんの「蛇の抜け殻による手拭紙」、服部一成さんの「ギフト用しっぽカード」など。五感の感覚に訴える作品群のようです。



この話の枕が面白い。


「思想って『やせ我慢』なんだよ」。ある思想雑誌の編集長に言われ、思わず「狭量ですねえ」と口走って怒らせたことがある。思想の内容について申し上げたわけではない。無理を自覚してなお、一つの思想にこだわり続ける、その姿勢に違和感を覚えたのだ。論壇誌・思想誌がますます閉じた印象を強めるのを見るにつけ、失言もまったく的はずれではなかったと思えてくる。

論理と感性は相反するものかもしれませんが、ロジックだけで戦うのでなく、感性に訴えられない主張では、この多様性の世の中で人々は動かせない、んじゃないかなぁ!



すぐその上に、山口宏子さんのあんパン食べて死刑。それも切腹!というシュールな不条理劇、飯沢匡の「夜の笑い−第2部『接触』」の再演について書いています。明治時代の学校を舞台に、授業中にあんパンを食べた生徒5人が切腹を迫られる話だそうで、「校内を取り仕切る女性副校長の威圧感。教師たちの軽薄さ。生徒の過剰な従順」が「右旋回している世の中への痛烈な批判」として書かれているのだそうだ。1978年初演の時代の空気をよく表しているが、日の丸君が代の強制が進む昨今、時宜を得た再演だということ。



ところが山口氏、結末に面食らう。「士族」身分の副校長の卑劣な行為を「平民」若い女が暴き生徒らを救う、のだそうです。「支配者はあくまで悪で、それをやっつけるという痛快すぎる展開を素直に笑えなかったのだ」と山口氏は邂逅します。


演劇界はいま、喜劇が花盛りだ。目立つのは、人間誰もが持つ愚かさを認める「共感の笑い」と、つらい日常を絶望せずに生きるための「切実な笑い」。社会のゆがみや人間の悪意は描かれるが、登場人物を悪と断罪する作品には、ほとんど出会わない。こうした舞台になじんだ者は、権力と闘う飯沢喜劇に感心する反面、気後れもする。

何が言いたいか。



山口さんも書いていますが、この作品の主張は無効になっているわけではないのですが、「歳月は作品を受容する精神を変える」、私たちはもはや水戸黄門のような勧善懲悪ではリアリティがもてない。そもそも、何が善で何が悪か、もっと正確には、相手が悪で自分が善である!と主張することはそう簡単にはできません。



それは自分に自信がないということではないんです。自虐的なわけでもない。「ジャパンアズNo.1」を生きてきた私たちの世代は、そんなに焦らなくても自信を確信している面がある。そうでなく、時間的にも空間的にもより幅広い経験を生きているこの世代は多様な存在があることを肌で感じているんだと思います。


多様な価値観の中で合意を形成していくプロセス、または、「人々に和解へと導く」道筋を考えるとき、善悪、勝ち負けという古いモデルでは賞味期限がとうに過ぎてるんじゃないでしょうかね。そんなときに、感じさせる力が大事なのでは。「悲しむ力」を取り戻すことを精神科医の野田正彰は訴え、世間から取り残された人たちが集う「悩む教会」が新たな世の中を生み出す力を持つことをジャーナリストの斉藤道雄は見いだす。勝利主義の誘惑に打ち勝たねばならないのではないでしょうかね。