『私のイエス』の遠藤さん
いまさらですが、先日本屋で遠藤(周作)さんの『私のイエス』を見つけ、読みました。
もうこんなあたりは、遠藤さんの作品の中では読んでて当然なものでしょうが、こういう、自分自身の信仰告白のような本があるのは知りませんでした(もっとも、私はほとんど小説を読まないので、全般的に疎いのですが)。
前書きのところで、遠藤さんは、自分が12歳の時に母親に連れられて洗礼を受け、自分で選んで受洗した三浦朱門氏や椎名麟三氏は「恋愛結婚」をした人だ、といい、彼らを羨ましいといいます。それに次のように続けます。
しかし今、私の気持ちはだいぶ違っております。恋愛であろうが、見合い結婚であろうが、あるいは許嫁結婚であろうが、そういう動機はどうでもいいことで、そのあと、自分が受けたものをどう持続するかということが信仰だろう、というふうに考えるようになってきました。・・・私がかつて若かったころ、ひじょうに無味乾燥、荒唐無稽に思えた聖書を、その地点から皆さんと一緒に読んでいきたいと思うのです。
遠藤さんが描く、ともに苦しむイエス、孤独のイエス、無力なイエス、同伴者イエス、というイエス像、キリスト論、は小説の中で味わうことができますが、その背景にある彼の信仰の軌跡に触れることができるような、そういう聖書入門だと思いました。聖書なんて胡散臭い、クリスチャンは偽善的だ、と思っている一般の人に読んでもらいたい本ですね。
遠藤さんは、戦前の日本で洗礼を受け、ジャンセニズムの影響が色濃い公会議前のフランスに留学し、日本で高度成長していく社会の中で生きた、そういう時代背景と彼の作品について、いつか詳しく知りたいものだと思っています。