disparate audiencesに悩まされるということ

このことば、なかなか宙で覚えられないんですね。新しくブログをはてなで始めたいきさつに関係することばです。ブログをやると、当然いろんな人が見るということですね。


これは梅田望夫さんの2月のエントリー「Blogを書くことの心理的負担とそれを上回る魅力」の中で使われていることば。


このエントリーでは、企業トップの1人が実名で登場し、自社の製品について個人の立場で意見表明し議論するブログの先駆者である、マイクロソフトのScoble氏がブログをやりすぎて燃え尽きてしまったことが書かれています。そのときに問題となるのが、disparate audiencesが増えてきた、という困難さです。


何だか本当に身につまされる話である。「Talking to my blogger friends」だった昔にはもう戻れないのは、今や彼が「disparate audiences」(共通点のない本当に色々な人達)に囲まれてしまったからである。


村山氏は、Scobleについての感想を、


「毎日のように世の中から膨大な情報を吸収し、それを変換してまた吐き出すという形で知恵の形成に尽くしていることに快感めいたものを感じながらも、いつしかそれが自分のエネルギーを吸い取っている、ということに気づいたのだろう。」(第2回より)


こう述べておられるが、Scobleのエネルギーを吸い取る源は「disparate audiences」(共通点のない本当に色々な人達)であったに違いない。


僕もこの連載を続けている中で何度となく経験し、今も完全に克服できてはいないが、ネット上で多くの読者に向けてモノを書くという行為で、乗り越えなければならないハードルは、この「disparate audiences」(共通点のない本当に色々な人達)に慣れることである。


雑誌や新聞にモノを書く場合には、どれだけ発行部数が多くとも、この「disparate audiences」を実感することはほとんどない。よほど挑発的なことを書けば話は別だろうが、ごく普通の論説に対して、直接の反応などほとんどないのがオールドメディアでは普通だからだ。でもネットは違う。そしてBlogはまたぜんぜん違う。世の中には本当に色々な人が居るということを日々実感させられるし、社会全体の正の部分と負の部分というのはいつも表裏一体のものなのだということに気づくことも多い。


しかしそういうことを超えて面白いから、ScobleはBlog中毒(I'm addicted to the blog)になり、しばらく休んだあとでまた復活してきたのであろう。

とのこと。disparate audiencesに悩まされてもやっぱりブログはやめられない、とScobleは復活してきたんですねぇ。この顛末を紹介した村上氏は、続けて次のようにいっています。


「話は逸れるが、数百万人のブロガーが存在し、それぞれがお互いの内容に影響を与え、引用やトラックバックでつながっているという現状は、「人間の知恵」みたいなものがインターネット上にどんどん集積するのみならず、「対話」を通じて新たな知恵が生まれることを可能にしているのかな、と思うときがある。インターネットが自然発生的に人間社会の「ナレッジシステム」を形成している、という見方をしても良い。ただ、こうして毎日のようにBlogを書いたりしていると、自分がこのシステムから何かを得ているというよりは、システムの維持と発展のために自分の時間や知識、思考といった資源を注入しているような気もしてくる。これではまるで、「マトリックス」に描かれた人間がシステムの電池と化した状態ではないか。すると自分は「電波系」ならぬ「電池系」か。」(第7回より)
結局、ブログの書き込みとリンクの応酬で、ネット上に「知」がパイルアップしていく様子が書き手には実感できるんですね。この前の方に村上氏は、ScobleがCNETJapanからのリンクやトラックバックが増えていることで、誰かが自分の書き込みを日本語に訳して紹介しているらしい、と書いたのに反応して、村上氏が自己紹介を送ったところ、1時間くらいあとに本人から直接、メッセージが来て、紹介してくれてありがとう、といわれ感動したことが書いてあります。


これが、上の、対話を通じて新たな知恵が生まれ、人間関係も繋がっていくことに、実際なっていっている一つの例だと思います。


長くなりましたが、書きたかったことは、細々やっている私のブログにもdisparate audiencesはいて、書き手の思惑とは違ったところでうごめいてくれます。私はburn outするまでいきませんが、なかなか難しいもんだなぁ、というのが実感。しかしこれもいい経験、やってみなきゃぁ分からないところであります。そういうわけで、一度死んで復活してきているところであります。