主語の欠落(途中です・・・)

quelo42005-01-01

村上龍氏がやっているJMMで、日本経済の問題について繰り返し語られる、「国民、国益というが、いったいどの“国民”の、どういった“利益”について話しているのか?」というテーマがあります。

これに関連して、論者の1人、北野一さんが以下昨年12/27号で、「『政府・与党』は整備新幹線の工事費をどこから持ってくるつもりなのでしょうか」という編集長の質問に答えて、以下のように書いています。ちょっと長すぎる引用で、反則気味ですが、JMMのサイトはバックナンバーが読めませんので、後半部分を全文転載させていただきます。


(前略)
以下に、小谷氏の主張を簡単に紹介してみましょう。

日本語ではよく、動詞に対応する主語が欠落した主張がなされる。主語の欠落は制度主義の重要な特徴である。主語の欠落は、主張の混乱や空疎さを覆い隠し、それらを筆者にも読者にも気づかないものにしておく効果を持つ。この効果のために、制度主義の議論は一見もっともらしいものとなって受け入れられる。
(経済学者、現代日本の市場主義と設計主義小谷清『現代日本の市場主義と設計主義』第2章「日本的設計主義 制度主義と主語の欠落」)
ここで、キーワードになっている「制度主義」ですが、小谷氏は「制度主義」を次のように定義しております。「制度主義」=制度を、風土・技術・嗜好などの基本的条件の「結果」として存在するものではなく、それらとは「独立の要因」として、社会のあり方・動向・様相を決定づける「原初的・第一次的原因」と考える社会観。簡単に言うと、社会を人間が設計できるとする、思い上がった考え方ということになるでしょうか。

この「制度主義」と「主語の欠落」を代表する事例が、セーフティネットを巡る議論だそうです。「失業保険や健康保険・年金制度等々のセーフティネットが供給されて初めて人々は安心して一所懸命働ける」と主張する方々は、サーカスに喩えて、その必要性を訴えます。「セーフティネットが文字通りあってサーカスでの綱渡りや空中ブランコのようなアクロバットショーが初めて行えるのだ」と。


小谷氏が、この議論の問題点だと指摘しているのは、セーフティネットの供給者、つまり主語が曖昧にされたままであるということです。「サーカスでセーフティネットを供給するのは、サーカス業者自身、つまり民間主体である」。従って、セーフティネットの供給者として「政府」を予定しているものが、自分で必要なセーフティネットを自分で供給しているサーカスを喩えに使うのはおかしいだろうということです。主語をはっきりさせてサーカスの喩えを使うと、この議論の結論は論者の意図とは逆に、「社会にセーフティネットは必要であるが、政府が供給する必要はなく、放っておいても民間主体が自分で供給できるから、その供給は市場に任せておけばよい」になる筈だと。

小谷氏のよると、制度主義の主張には、内容があるように見えても、それは主語が欠落しているからであり、主語をきちんと入れると、とたんに主張のおかしさが露呈し、説得力を失ってしまうものが多いと言います。

もっとも、こうした無意味な主張も、主語を欠いたまま繰り返されると、「政治的には制度主義的改革が大衆運動化するという重要な効果が生じ」、その結果、「反対論は封殺されて、強権(政府)なくしては実行不可能な制度主義的改革が社会的圧力によって民主的な見せかけの下で進む」と、その危険性を指摘しておられます。


小谷氏は、主語の欠落に伴う大衆運動による反論封殺の例として、サッカー・ワールドカップ時の報道を思い出します。「W杯で優勝しよう」というスローガンの主語は誰なのだ? と。こうした主語の欠落したスローガンを繰り返すうちに、「国民がW杯で競技をする主体であるという幻想、言い換えれば参加意識を国民に抱かせる効果を持ち、W杯で優勝することが国民的精神運動と化す」と眉を顰めます。

こうした状況は、「本来の民主主義的政治決定とは異なる」わけで、主語として抽象的な「日本」や「われわれ」が適切になる状態では、制度主義改革が、一握りの人々の強権によって行われたのではなく、国民が行ったように見えてしまいます。不良債権処理の時もそうでした。不良債権処理を進めるのは「誰か」という主語を欠いた議論を展開した結果、「公的資金投入」という強権発動が、あたかも国民の総意のようになって行きました。


国民一人一人が、「主語の欠落」に無頓着であるなら、民主的な装いのもと、どんどん強権が発動され、一握りの人々の理想を絵に描いただけの社会「改革」が実現してしまう懸念が強いということでしょう。「政府・与党」とはいったい何か? という編集長の強い懸念の背景には、主語の事実上の欠落によって惹起される民主主義の危機が、含意されているように思えてなりません。

 三菱証券 エクィティリサーチ部チーフストラテジスト:北野一

例えば、郵政民営化は国民にとって有益かどうか?」、とか、イラク自衛隊を派遣することは国益にかなうのかどうか?」、といったことが気楽に語られるわけですけれど、こうした制作によって、得をする人と孫をする人が日本の中にいるわけですね。それを十把一絡げにして、みんなに得なんだ、だからやるしかないんだ、といった議論をしているようでは駄目。

ただ、政治家は自分の恣意的状況に向かって動かそうとしてますから、それがあたかも万人にとっての利益と語ることがあるわけですが、マスコミこそが、誰にとって利益であり、誰にとっては不利益になるのかをちゃんと証せ!、つまりは主語を示せ!ということになるわけです。それ抜きでは、ごまかしの議論、ひいては、矛盾だらけの議論にとどまってしまうわけです。


まったく同じ線上で、昔花登こばこのドラマだったと思いますが、「戦時中、一億玉砕して国体護持!っていうけど、一億玉砕して残るもんはなんや??」と主人公がつぶやく場面があったのを覚えていますが、確かにその通り!と子どもながらに思った記憶は鮮明です。一億玉砕は全滅することをめざしているかのようですが、ほんとに一億玉砕して山や川だけが残った状態というのはなんなんでしょうか???

しかるに、このスローガンを掲げている人やその家族はまさか自分が死ぬとは思っていなかったのではないでしょうか。結局、こうしたスローガンを掲げて、貧乏人や朝鮮半島の人を駆り立てて、いのちを粗末に扱い、でも決して自分は安全なところで高みの見物! まったく、戦争とはそういうものか!と思ったものです。


最近の教育改革でも、役人や政治家が用いる「国を愛する」ということばの意味は、「役人や政治家のいうことに疑問を持たずに盲従する」、という意味だと解します。つまり「国=権力者」。つらいですねぇ、力も金もコネもない人々は・・・! 

だいたい、自分たちの利権のために税金を垂れ流して箱もの行政を繰り返す政治家役人たちが果たして「国を愛している」のでしょうか? そこら辺からたたき直さないと、いや失礼、これはまた戦争へ突き進むロマンチシズムのようです。(12月28日のエントリー参照!) そうではなくて、次の選挙で民主党に入れてとりあえず、ちょっと政治家に気分を変えてもらいましょ! それくらいののりで、住みやすく生きていたいものです。軍事態勢はきついですよ!警察や自衛隊から迫害を受ける日本人になるのはしんどい!


翻って、宗教団体も「主語」を忘れちゃぁいけません! 「救い、救い」と連呼しても、結局、自尊心満足させて、得して救われているのは自分たちだけなんじゃないんですか! ざんねん! いかに自分を客体化できるか、斬り! ってとこでしょうか。