いのちを賭することと、“平和ボケ”

「若者たちが国を守る気概を持たなければ!」というように威勢のいいことを叫ぶ“オトナ”たちがいますが、そういう人たちこそ、“平和ボケ”しているんじゃないかと思うことがあります。


いろいろな紛争地帯に行って働く、ジャーナリスト、NGO関係者、政府職員、自衛隊員など、文字通りの意味で“いのちを張っている”訳ですが、それを見ながら、安全なお茶の間から彼らを論じることこそ、“平和ボケ”なんじゃないかと。「殺されるかもしれない」という緊張感は、体験してみないと分からない、恐ろしいことです。日本にいて「終わりなき日常」を生きていると、これを体験することは決してできない。それは恵まれた状況でもあり、逆に生の意義を十分に感じにくいという意味で不幸なことかもしれません。


いのちが誰かに与えられたものだとするならば、そのいのちを与えたものと与えられた自分との責任の中で、生きていけばよい。精一杯そのいのちを生きればよい。自分のいのちを張ることはかなり恐ろしいことです。どんなに覚悟があっても、そう簡単に自分のいのちをあきらめるわけにはいかない。その危険を冒してまで何かを成し遂げようとする人以外、“平和ボケ”のほんとの意味は分からないんじゃないのかと思います。


“平和ボケ”をしていない人は、決して“好戦的”な人なわけではないことを分かって欲しい。戦後生まれで、海外経験の乏しい60才前後の人の方が“平和ボケ”してるんじゃないかと思うこともある。いのちが犯される恐ろしさを知る人こそ、いかにそれを避けるかに真剣になれる人だと思います。