はじまりに、かしこいものゴザル

あらゆる問題について、それが社会問題であれ、人生についてであれ、恋愛についてであれ、学問についてであれ、何が正しくて何が間違いか、どこに真理があるのかについては、いろんな考え方がありますが、私は人々が語る共同体の中に真理がある、というのが基本的な立場です。カントが言うように、誰にとっても問答無用の義務なんてのがあるとは信じられません。(カントはそうは言ってない!ということでしたらすみません) というわけで、いろんなことを考えるときに、「物語」をどう理解するかという研究は私にとって大事なことです。

で、藤井貞和『物語理論講義』を最近読んだのですが、起源(国の起こり)神話の話やら、語り手の人称の問題やら、いろいろと面白いテーマが、「講義」というだけあって、1つずつ丹念に解説されています。


その中で、時制についての章に聖書の翻訳のことが書いてあります。ギュツラフ訳の新約聖書ヨハネ冒頭部分が上の、「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」なのだそうです。現代の新共同訳では「初めに言(ことば)があった」、文語訳では「はじめにことばありき」というところ。ちなみにギリシア語の活用は未完了過去だそうで、現在に続いている感じを出すためには、あとの2者よりも「『ゴザル』に込められた現在性の方が、『あった』『ありき』よりは聖書原文の思いに近いのではないか」と述べています。


この話、ちょっと面白いと思いました。別に『文語』がいい、というのではなくて、口語は確かに過去についての表現法が狭いようです。ただ、口語はそれを別の表現で補うわけだし、文語をみんなが使ってない以上、「やっぱり正しい日本語は文語」なんて、教養主義的発言は無意味だと思っていますが。ただ、神がこの世にイエスを送ったことで、究極的な救いが完成した、とか何とかいうテーゼを示すためには、ただ単に、昔ロゴスがあった、という話をしているのではなくて、「いまにも続いている感」を何とか出さないとほんとじゃないわけですね。という文脈で、「ゴザル」は何と便利な表現!

ということはバザ〜ルでゴザ〜ルも、ギリシア語未完了過去の影響で・・・・??