最近の中国あたり:マスコミの慣性(惰性?)

quelo42005-09-02



中国にいるフリージャーナリストのふるまいよしこさん(ふるまいさん個人のサイト、彼女の本『香港玉手箱』(石風社))が、JMMで最近、中国で話題になっていることをいつも伝えてくれますが(『大陸の風−現地メディアに見る中国社会』第53回「娯楽か、民主か?」9月1日発行)、まずその冒頭で、動きの鈍い、駐中国日本のマスコミをちくり!(ちょっと長い引用ですが、いつものようにJMMは配信当日の記事しか読めないので…)

 このところ、日本から出張に来た人、在中日本メディア関係者に立て続けに会う機会があって、話題がすぐに「反日」だの「抗日」だのになるのにちょっと辟易している。それはそれで確かに大事件だったのだが、中国にかかわり、中国について報道する日本人たちがいまだに日々そればっかりに気をとられているという事実、そしてそれを日本人だけの席でぐるぐるぐるぐると出口のない愚痴のように繰り返す(情報の磨り合わせ、なんだろうか?)のに付き合うのは、もう飽きてしまった。


「そりゃ、仕方がないでしょ。日本の読者にとっては関心ごとなんだから」、そうも言われた。でも、そんな読者の関心を引いてるのはメディアの方じゃないの? と言いたいくらいだが、そこまでして「話」を引き伸ばす気すら起こらないくらい、この話の「磨り合わせ」はもうご勘弁願いたい。新しい話題や発見があるならまだしも、やはり、既成メディアと、「地下工作者」(実際にこう呼ばれたことがある)であるフリーランスってここまで視点が違うんだなぁと思いを新たにした次第である。


 もうひとつは、日本メディア関係者が「まだまだ終わってない」という「反日」「抗日」の、なべに焦げ付いたような話題にばかり気をとられている一方で、中国庶民の興味はとっくに他の関心ごとに移っているという事実に彼らはあまり注意を払っていないという点に、わたしは苛立ちすら覚える。「報道」とは「事実をありのままに伝える」ことなのか、それとも「ペンの力を使って第一線の立場で批判する」ことなのか。社会的にメディアの力に対する期待が高まるにつれて、その中で働く人たちの意識でそれがあいまいになってきていることを、受け入れ側の読者はきちんと知っておくべきだろう。

そうなわけね、中国ではもう日本になんか関心ないわけ。この後ずっと書かれているのは、新しい中国でのキーワードについて。「そのキーワードとは『超級女声』、湖南省の衛星テレビ局が製作した、言うならばかつての『スター誕生!』のようなタレント発掘番組」についてです。


近代化を始めた中国で、テレビが普及し、そこから“スター”が誕生してくる、それが誰でもある日突然タレントになれる!というような図は、いつか私たちも通ってきた道のような気がしますね。しかし中国は規模が違うので15万人もの応募があるらしく、すごいものです。

また過去の日本や、その昔のアメリカなどとの大きな違いは、この番組を巡って携帯電話のショートメッセージが多用されていて、それが番組自体にも影響を与えているようです。若者の新しいコミュニケーション形態が単にこの番組に限らず、大ヒットしているこの番組を契機として、単なる娯楽を越えて、中国の民主を表している、という見方(分析)も広まっているとのことです。


権威にある人たちは「あんな低俗番組!」とけなし、「そもそも魯迅は…」、とか「五四革命では…」と、過去の権威に訴えて文句を言い、もっと若い世代は、この現象自体を歓迎ムードで観察しているようです。最後に、この現象について分析しているいろんな人の文章を検証した後のふるまいさんの結びの言葉。皆さんは何十年代生まれですか? 日本の後近代のどこらあたりにいるのでしょうか?

そうやってさまざまな意見を読んでいるうちに、学者ではないが、ある編集者の投稿が目に付いた。この編集者は繁華街で、自分が支持する『超級女声』アイドルのためにショートメッセージ投票を通行人に呼びかけていた若者を目にしたという。

「この1990年前後生まれの子供たちは、筆者のような80年後半世代とはまったく違った思考を持つようだ。彼らは『エンターテイメント産業』という言葉の意味は知らないかもしれないが、彼らには独自のルール受け入れと価値の判断基準があって、それを自分の身体を使って表現しようとする意志を持つのだ。たぶん、これこそが『超級女声』が引き起こした社会現象であり、とにもかくにもそれは空前の出来ごとだったのだ。このような現象はある種の観点、あるいは論点であっさりと片付けられるようなものではなく、社会はまたそれを消化していかなければならないわけで、それより前に、責任感のある学者がその現象を観察し、分析していく努力をすべきだろう」(「『超級女声』を『消化』する時間をくださいな」新京報・8月23日)

80年代生まれのこの人物でも90年代生まれの子供たちに、世代の違いを感じる世の中なのだ。その彼らにとって、40代を遠く過ぎたおっさんやおばさんたちが、五四運動なんか持ち出して何かを説いたところでしょうがないのかもしれない。ならば、『超級女声』で参加の喜びを味わった子供たちが大きくなったとき、この社会はどんなふうになるのだろうかと想像してなんだかうきうきしてしまうのは、わたしがあまりに能天気だからだろうか。