日本人である、ということ。教育において+宗教経験において

quelo42006-05-04



教育基本法改正について調べていて、文科省の資料サイトで、有識者公聴会から中根千枝先生のコメント発見。なかなか頷かせるものあり(中根先生、既に“名誉教授”になっていたのか、との驚きもあり、それもそのはず、ことしで御年80歳!)。


インドとの比較で日本を見た『タテ社会の人間関係−単一社会の理論』で有名な中根先生、「アイデンティティは他者との関係の中で自然と獲得されるものであり、ことさらに教育の中で“日本人としてのアイデンティティを自覚する”といった具合に強調する必要はない、と言っています。「道徳教育」についても否定的で、善悪のようなものは家庭で教えるもの、学校では社会生活について議論しながら考えさせるようにすべき、と意見を述べていますね。アイデンティティについてはこんな感じ。

委員)疑問点が2つある。1つは、アイデンティティについて、そう楽観はできないと思う。意思、弁護士など日本のエリート層の多くの人が、自分の子どもに日本の教育を受けさせたくないと考えており、日本人であることに期待せず、日本人であることを放棄している状況にある。本来、嫌な面を含めた土着の生き方がそれぞれの国の文化であるはずだが、それを嫌がる蒸留水のような発想の人が出てきている。日本の文化は、日本の生活の基盤である日本語を話す我々でないと伝えていけない。このような現状からも、基本法の中にアイデンティティは積極的に書いた方がよいと思う。
2つ目は、英語教育について。オリンピックの金メダル選手が、大卒であるのにもかかわらず、通訳を付けて取材を受けていたことがあったが、このような状況を放置し、必要な人だけ英語ができればいいというわけにはいかないのではないか。


中根教授)オリンピックの金メダリストは英語を話さなければならない立場の者であり、英語ができないのは彼らの怠慢である。英語を話す立場に立ちそう、立ちたいという人ならば、自ら学ぶべきであり、その点、日本人は努力不足であり、相当怠慢である。他国では、英語が必要な立場に立ちそうな人は短期間で努力して語学を身に付けるが、日本の社会全体に英語ができなくてもいいという風潮がある。学校教育の問題ではない。
アイデンティティは、自分たち以外の他者と接触して初めて出てくるものであり、孤島やジャングルの奥など他者がいない場では生じない。そういう環境で暮らす部族の名前は、彼らの言葉で「人間」を表す言葉であるケースがほとんどである。日本人がこれまで置かれてきた環境はこれを拡大したようなものであった。日本人が今しきりに「アイデンティティ」と言うのは、これまで他者と関わってこなかった証拠である。アイデンティティは、国際化が進む中、好むと好まざるとにかかわらず自然に出てくる。
郷土や国を愛するのは自然のことであり、教育で教えるものではないし、教育により獲得されるものでもない。必要がないのにアイデンティティを深める必要はない。

さらに、「愛国心」を強調したり、「日本人らしさ」を身につけさせるといったことしなくても、外国人から見て、外国に出てみれば、日本人らしさは抜けないもの、とも言っています。

中根教授)今、日本で働く外国人は単純労働力を提供する立場であることが多いが、これからは日産のゴーン氏のようにトップや中間的なポストに外国人がいるようになることが大事。そうなると自然に同業者でない日本人よりも親しくなる。その時にはあくまで同僚としてつきあい、日本人・外国人という意識をしない方がいい。
ある椅子のデザイナーは、「日本的なことを意識しなくても、自然に日本的なものは現れる」と言っていたが、日本人はどこまでいっても日本人である。外国人も、「日本人らしくない日本人はほとんどいない」と言っている。今、日本人に「日本人」の意識が強すぎる、「日本人」という表現を使いすぎると思うこともある。外での経験が増えれば自然になると思うが、「日本人とは何か」についてはあまり考える必要はない。民族学的にも、「○○人」の定義は難しい。あまり拘泥しない方がいい。

教育問題についての「日本人のアイデンティティ問題」は別にして、こうした日本人の有り体が操作可能かどうか、という命題はキリスト教のインカルチュレーションにも当てはまるような気がします。日本人であるキリスト者にとって、無意識化している自分の「日本人性」を顕在化させること自体が、インカルチュレーションの出発点になるだろうと思っています。