記者の反芻

quelo42007-08-18



 私は文字通り、「40の手習い」で新聞記事を書くようになったので、何とか毎週記事を出して、白い部分が残らないようにしているものの、その内実は、実に「とうしろう」であります。
 そういう私にとって、「そもそもジャーナリズムとは・・・」なんて言葉で始まる、利害関係者評論家諸氏のクレームはまったく参考にならず、結局みんな我田引水ね、としか思えないわけですが、日経BP「記者の眼」というコラムが、記者が自分自身の記事について、後日談やその後の展開について陳介してくださるので、実際問題非常に参考になる、ないしは、「わかるわかる!」と膝を打つ記述が多いのであります。自分の取材、記述態度について、具体的技巧的かつ倫理的に参考になること、大であります。


 で、今回、「ビジョンの代わりにマイクロソフトが語るもの」という(中田 敦=ITpro)2007/08/09、の記事は、やっぱり同じように、とても参考になる記事でした。

 恥ずかしながら記者には,記事を公開してしばらく経ってから,そのニュースの重要性を思い知らされることがある。6月に米国で開催された「TechEd」に参加して執筆した「『もうビジョンは語らない』,沈黙し始めたMicrosoft」という記事が,正にそうだった。

 たしかに、自分で関心を持って取材していたり、ないしはもっと悪くて、行かざるを得ず、というか、行けと命じられてイヤイヤ(自分としては価値がないと思いつつ)行く取材の記事に、意外に反応があったりして、その「事件」の意味をあとになって知らされることは、私の体験でもあるものです。


 このコラム中、「困り果てた記者は『ニュースが無いことがニュースなのだろう』と判断し・・・」というくだり、けっこうこういうこと、取材であるんです。
 重要な会議にもかかわらず何も決まらなく、記者としては唖然騒然愕然とするのですが、「何も決まらなかった」という「ニュース」を伝える義務があるのではないか、と無理から自己納得し、記事を書くわけです。でも、結果的にそれが読者、並びに、関係各所に意義があったりするわけで、それは第三者としての記者の思いが及ばないこともあるんですね。


 この記者の眼に出る記事は、MSが大上段の「ビジョン」を諦め、具体的な「プラン」に注力するようになって、ある意味魅力を失うわけですが、企業のアカウンタビリティとしての精密さと信頼性をぐっと引き上げたことに、クライアントはこぞって拍手喝采した様が、記者の予測を遙かに超えて起きた様子を、記者自身が生々しく「自白」しています。ある意味、こういうのが記者冥利かな、とも思います。自分の意図に反して、著しく重要なターニングポイントにいさせていただいた、それを取材し文字化させてもらったという奇遇について。


 記者だって、いや、記者だからこそ、あらゆるテーマに関わらざるを得ず、その本職・専門家の人たちが理解しているほど状況を飲み込めているわけもなく、一か八かで記事を書いているわけです。
 私も金融関係のときに、「この日経の記者、この金融スキームについてな〜んにも分かってないよなぁ」と思ったことたびたびです。しかしですねぇ、分かるわけないんです、私たち銀行にいる人間が必死こいて開発し、競合各社(各行)はまだ理解してない内容、スキームなわけですから、一般経済記者がそこについてこれるはずがない!
 記者としては、とりあえず職務として、目の前に見えていることを誠実に、できるだけ正確に、記述していこうと思っているわけです。その結果、歴史が記者の意図を超えて、記者の記述を評価することもある! 思わず「役立つ」こともある。


 そんなに頑張れませんが、目の前にあるものには、できる限り、誠実に行きたいと思います。私の目の前にあらわれるであろう、あなた、あなた、ちゃんと私が書けるように、ちゃんと表現してくださいね。そうしたら、可能な限り誠実に、記述描写しますから。