専門知にはまる危険と、「翻訳家から批評家へ」モデル

quelo42008-01-02



 ミスター年金となった長妻昭は、実は日経記者だったというところから始まる、調査・取材とはなんぞやという、面白い記事(【ミスター年金長妻昭氏に聞く取材テクニック】「前編:官僚から「本当の話」を聞き出す方法」 「後編:政治家と官僚の“相互不可侵条約”を打ち破る報道を」)を書いた武田徹が、報道取材について興味深い文章を書いています。「日記を「ジャーナリズム」にした清沢洌」


 ここで報道について。

 1週間やそこら資料を読んだとしても、その道の権威になれるはずはない。それは当たり前の話で、にわか仕込みの知識で偉そうに振る舞うジャーナリストは、その姿勢自体が専門知識の厚みに対する無理解ぶりを示しているのであり、軽蔑に値しよう。これは実は量の問題ではなく、1週間が数カ月に延びても、あるいは数年に延びてもその事情は本質的には変わらない。
 職業選択を誤った、能力に乏しい研究者が相手であればそれを凌駕する知識を持つこともあるいは可能かもしれないが、その道一筋で研究してきた天才たちを取材相手にする場合は、資質の違いもあり、いかに予習をしても敵うはずがないのだ。


 しかし、だからといって劣等感や無力感を感じる必要もない。というのは、ジャーナリストは専門的な知識の深さで勝負しているわけではないのだ。伝える仕事であるジャーナリストは伝える相手、つまり読者や視聴者の知識のレベルを知っている。興味の持ち方や感じ方の傾向も分かっている。だからこそ専門知と一般社会に伝達する媒介役を果たせる。ジャーナリストに必要とされる知識は、まずはこうした媒介役を正しく果たすために必要なものだ。
 つまり伝える先の読者なり、視聴者なりに間違いを伝えないように専門知を正しく理解する程度の知識、その専門知がどのようなかたちで読者や視聴者に影響を及ぼすのかを的確に把握する知識がまずは最低限必要だということになる。


 さらに、こうしてやさしくかみ砕いて伝える「翻訳家モデル」だけでは足りないと書いてあります。

 経験のあるジャーナリストは、取材や執筆の経験を通じて様々な社会問題に触れてきている。ジャーナリストとして活動をする前に仕込んだ知識・教養のバックグラウンドもある。そうした経験知の蓄積もまた取材に生きる。そうした経験知と接続させることで、その時に取材で得られた情報を、別の文脈に照らし合わせて評価することができる。そうした作業を通じて、専門知を分かりやすく噛み砕いて世間に伝える「翻訳家モデル」のジャーナリズムを超え、新しい情報を様々な文脈の知識と接続し、歴史と社会の中に位置づけ、評価しつつ報じる「批評家モデル」のジャーナリズムの仕事が果たせる。


 ジャーナリストが目指すべきは、そうした「批評家モデル」であり、だとすれば専門知を深めることの危険もまた理解できるだろう。専門知の蓄積は、ただ情報量の増加を意味しない。必ずその専門知を育んでいる共同体への没頭、感情移入を伴う。
 ある科学技術者を深く取材しているうちに彼と同じ気持ちを抱くようになり、科学技術に対する冷静な判断が下せなくなってしまう。業界取材をしているうちに業界の一員になってしまうのと同じ論理である。専門知はあればそれに越したことがないが、こうした危険も視野に入れておくべきだろう。


 この最後の、専門業界と感情的癒着している記者は、「いるいる!」の世界。実際、興味があるからその方面に行くわけで、ほんとだったら、被取材者といっしょに、「行けいけ!」とやりたいときもある。また、被取材者たちから、「どうしてもっと書いてくれないんだ」というプレッシャーも常に少なからずある。これに耐えるのはなかなか辛い。


 こうした精神的癒着に陥らないのは大切な一方、まともな人間にとってはなかなか酷なことで、何にでも興味を持ちながら、何にも深入りしない、決して自分のものとはせず常に他人事の批評者としての距離を保つ、みたいな人がジャーナリストであったりして、こういう人と普段つきあいたくないなあ、という感じになりがち。
 しかしま、私のようなとーしろーでは、このレベルに達すれば、ま、OKというところかな。