糾弾記事の書き方

quelo42008-01-06



 古い記事ですが、c|netにある、毎日新聞の社会部OB、佐々木俊尚さんによる、糾弾記事の書き方の「お作法」についてのエントリーには考えさせられます。(<1>「毎日新聞連載「ネット君臨」で考える取材の可視化問題:2007/01/25」、<2>「毎日新聞「ネット君臨」取材班にインタビューした:2007/02/21」、<3>「新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか:2007/02/24」


 内容は、毎日新聞が07年1月から連載した「ネット君臨」という連載の特集記事の中で、子どもの臓器移植のための募金に対するネット上での批判を、毎日の記者が決めうちして批判しているやり方について佐々木さんが疑義を呈している、というものです。ネット君臨
 <この『ネット君臨』は毎日新聞社よりすでに書籍化されていますね。・・・解説:匿名社会の恐怖、拡大するネット犯罪…。ネットは我々をどう変えるのか。現代のネット社会が水面下にかかえている重大な問題を白日の下に暴け出す試み。『毎日新聞』2007年1月〜7月連載の書籍化。>



 記事の中で、この募金のやり方を批判した“がんだるふ”さんという人が、「悲劇の親子をネット上で匿名のまま誹謗中傷した人」としてつるし上げられている一方で、取材を受けた“がんだるふ”さんによれば、「取材の意図を説明されなかった」「記事になることを明確には示されなかった」「掲載されたことも知らせられず、掲載紙も送られていない」「取材を受けた方はハンドルネームが公表された一方、記者は匿名のままでアンフェア」といった問題を、佐々木さんが指摘しています。
 その結論として、<1>の「可視化」が重要であると説いています。

 マスメディアはみずからの影響力を自負し、みずからが発信した情報こそが世論になると考えていた。実際、そうした構造は戦後日本の世論空間を永く支配していたのだが、しかし今や音を立てて構造は崩壊しつつある。その最初の号砲が、この郵政解散ライブドア事件だったのではないかと思うのである。(いや、ひょっとしたらイラク人質事件にその最初の転機はあったのかもしれないが)


 そうした時代においては、当然のようにマスメディアと読者の関係は変わってくる。その構造転換を読者−−特にインターネットの人たちはすでに皮膚感覚として感じていて、マスメディアが世論を作る時代は終わってしまったことをまさに認識しつつある。その先にどのような世論形成機能が社会として培われていくのかはまた別の議論としなければならないけれども、しかしながらいったんひっくり返ってしまったものは元には戻らない。覆水盆に返らず、なのだ。


 ではそのような時代において、マスメディアはどうすれば信頼を維持し、記事の正当性を保ち続けることができるのか。私は、そうした信頼性を支えるのは、取材の可視化しかないのではないかと考えている。取材の可視化というのは、単に取材内容をオープンにしてしまうということではない。取材内容をただオープンにするのではなく、取材する側とされる側が相対化され、同じ土俵の上でそれぞれの意向を交換しあうような土俵を作っていくべきだと考えている。


 さらに、<2>では、そうした問題点を毎日新聞の編集部に直接取材して矛盾点を追及、<3>ではマスメディアが糾弾するときに安易に前提としている、「われわれは怒っているんだ!」の「われわれ」とは誰なのか?という問題をついています。世論形成をする主体(だと自己規定している)としてのメディアが、世間に代わって、自分一人が「われわれ」と恣意的に代表してしまうやり方はもう通用しませんよ、ということです。


 まあ、我が宗教紙は、まれにしか糾弾記事など書かないのですが、世間を代表して怒りを示す、というようなのは、私個人の感覚としては、ちょっと時代がかっているという気がします。ないしは、週刊紙的、または社会部的、というような。自分は完全に正義の立場、ないし神の立場に立って、相手を完膚無きまでに打ちのめす。正義or神でありますので、「われわれ」は怒ってるんだぞ!とやっても問題ないわけで・・・
 でも私が記事書くんなら、ネットで誹謗中傷された人に、怒りをあらわにしてもらい、一方で、そうネット上で批判した側から、そちらの言い分も載せる。記者の意向を書くとすれば、記名で行くしかない、と思います。
 もう1点付け加えれば、この「ネット君臨」というタイトル自体、ネット以前世代(に属するであろうこの連載企画記者・編集者)のヒステリックな、「ネット=得体の知れない危険」的嫌悪感が最初から滲み出てるなぁ、という気がします。その対比で、自分たちのような正統メディア以外の人間に、まっとうな社会批判などできるはずがない、といった奢りもあるかもね。


 日本では韓国と違い、市民記者が流行らなかった(例えば、オーマイニュースが流行らない、JANJANの記事が身辺雑記の域をなかなか出ない、など・・・)、と言われますが、だからといって、ネットを利用したコミュニケーション力が発達しなかったとは思えないですよね。
 日本で市民記者が流行らなかったのは、韓国よりもずっと早くブログ文化が敷衍したためだと、理由があげられています。けっこう、内容の濃い、また専門性の高い調査分析的なブログも多いようで、マスメディアだけが世の中の流れを追っていると思うのはもう無理。そんな中で、正義の御旗を背にして、一刀両断する社会部的メディアはお門違いかと。


 両方の言い分を載せて読者に評価させる場を、また読者独自の意見を持ってもらう、さらには読者から記者自分自身を批判させる余地を創作するような記事を書かねばと思います。それが「可視化」かな。難しいですけどね、自分をちょっと距離をいてみないといけないですから。
 (それにしても・・・佐々木さんのエントリー、長すぎ! 一言で言え!という感強し。これもまた社会部的徹底糾弾or全共闘自己批判強制?)