玉三郎さんって、すごいなあ

quelo42008-01-15



 またまた「プロフェッショナル」から。茂木さんって、これだけ短い行数で、これだけの内容を書き込めるのってさすが、と思います。何というか、認識したことを、非常に整理した形で、コンパクトに頭にしまっていくのが本当に上手いんだろうと思います。だからそう表現できる。
 ということで、今週のプロフェッショナルから。【茂木健一郎の「超一流の仕事脳」】玉三郎さんに「学習と発見」の手法を教わる  〜歌舞伎役者 坂東玉三郎〜


 まずは、エステティックについてですね。下の「喜び」を「救い」と置き換えると、我ら伝統宗教についても、同じことが言えるものだと思います。違った文化の中にある宗教の「形」について、「違ってもいいじゃないか」という思いがするものです。

 今回、「グローバリズム」について玉三郎さんがすごくポイントになることをおっしゃっていた。グローバルに通用するエンターテインメントとして、例えばハリウッド映画のように、結果として同じようなものを出すことを求めがちだ。しかし、玉三郎さんは「同じ喜び方をするものであれば、形は違ってもいいじゃないか」と、おっしゃっていた。
 片方は300万人が見て、片方が3000人見るのでもいい。ただそのムラが閉鎖的でなければ、1つのムラだけで喜びを感じているのでもいいとおっしゃっていた。
 例えばアメリカ人はあるものを見て喜んでいる。でも日本人は歌舞伎を見て喜んでいる。日本語も分かるし、文化も伝統も分かっているし、ある喜びを持っている。その喜びはアメリカ人がドメスティックな文化に裏打ちされたものを見て感じている喜びと同じだということだ。


 「喜び」における普遍性というものがあれば、それを引き出している形というものは別に同じである必要はないということを玉三郎さんは言われていた。これから日本人が、どう普遍性を突き詰めていくかを考える上で大事なことだと思う。


 もうひとつ、芸道の記号化、というべきか。創作する側が、芸術をこういうふうにとらえて実際に行っているという考え方に、感心します。

 今回、お話を伺った歌舞伎役者の坂東玉三郎さんは、女形を演じることを「音楽の演奏」に例えて説明してくださった。女形というのは、女という“音符としての仕草”を通して、音楽を奏でている。それは女優がやっていることも同じで、たまたま男の肉体を持っているか女の肉体を持っているかというだけの差である。女らしさを「演奏している」という意味においては同じである。・・・


 玉三郎さんとお話していて、まず驚いたのは文学的なものはどちらかというと苦手で、数字が好きだということ。何かを作るには感性だけで済む話ではなく、理屈や方法が必要だ。常々そう思っているのだが、玉三郎さんもそうだった。やはり鑑賞者と創造者は違うところがある。


 さらにもうひとつ、本題の教育について。なるほど、相手が自分で発見したことを確認してあげるのがほんとの教師、なわけですね。脳科学の理論としてもこれが教育なのだそうです。

 実は今回、玉三郎さんから「女形の仕草」を教えてもらっている時に、いままで感じたことのない妙な感じがした。普通、先生というのは「こうやりなさい」と言って、それと合っているか、違っているかということしか見ていない。しかし玉三郎さんは何か違うものを見ている感じがしていた。
 私が足の角度を変えて、自分の中で何か見つけた時、すかさず「それだ!」と玉三郎さんは言った。相手のことをよく観察していて、相手が自ら発見した時に「それだ!」と指摘してあげる。これは素晴らしいメソッドだ。私も学生や子供に対してさっそく応用しようと思う。


 学習というのは自分で発見するしかない。このことは学習理論として、我々も前から言っていたことだ。自分で発見するしかないのだが、それが経験を積んだ先輩がそこにいて、何か発見のトバ口があった時に「それだ!」と、指摘してくれることによって「学習と発見」が促進される。玉三郎さんのやり方は、非常に理屈が合っている。