非正規労働者の苦しみは、私が作り出してるかなぁ

quelo42008-08-26



 村上龍のメルマガ、JMMが経済の問題を、「日本がいい、悪い」というくくりではなくて、「日本のどの層にとっていい、悪い」ということをいつも意識して論じていることが大事だと思って読んでいます。


 今回の質問は、「Q.924:2008年08月18日、内閣府は、8月の月例経済報告の基調景気判断を「弱含み」として、「回復」という表現が消えるようです。4年8ヶ月続いた景気の「回復期」ですが、その恩恵を受けたのは、国民のどの層だったのでしょうか。また恩恵を受けなかったのは、どの層だったのでしょう。」 答えの中で、JPモルガン証券日本株ストラテジストの北野一さんの答えに示唆が多いです。

「自由市場資本主義は大成功を収めたが、民主主義は衰退してしまった」というロバート・ライシュの新著「暴走する資本主義」(東洋経済新報社)は、私たちのなかにある二面性に焦点をあてた本です。これは特に1970年以降のアメリカについて書かれた本ですが、この「私たち」のなかには、日本人も間違いなく含まれていると思います。「過去数十年の間、資本主義は私たちから市民としての力を奪い、もっぱら消費者や投資家としての力を強化することに向けられて」きました。「市民」というと曖昧な感じになりますから、生産者あるいは労働者と読み替えてもよいのかもしれません。


 ロバート・ライシュは、その具体例として、アメリカを代表する企業になった小売りのウォルマートについてこう語っております。「今日、ウォルマートは、従業員に年平均1万7500ドル、1時間当たり10ドル弱しか支払わず、しかも福利厚生もわずかなもので、年金保障もなく、健康保険手当も雀の涙だ」。そのウォルマートのモノが安いから、何百万人の人が買い物をする。私たちの多くが年金や投資信託の形でウォルマートの株を所有している」


 アメリカでは、ここ30年間で生産性は格段に高まっておりますが、ほとんどの人はその分け前にありつけていないとロバート・ライシュは指摘しております。「こうした事態をもたらした主犯は企業の貪欲さでもCEOの無神経さでもなく、お買い得を求めてプレッシャーをかけるあなたや私のような消費者であり、ハイリターンを求める私たち投資家」であったと。投資家であり消費者である私たちが、その利益を追求することにより、市民である私たちの社会的なコストは増加する。社会的なコストとは、民主主義の崩壊です。要するに、格差が拡大し、貧困が増加するというのが、この本の主張です。

 何たる皮肉! このウォルマートの話、かなりシビアです。結局、消費する側の立場に立っている限り、「価格破壊」やら、異様な便利さの影で、そこで働いている人は年収200万にも達していない。時給1000円で社会保障なし。古典的な言葉を使えば「搾取されている」ことになっているわけですね。
 そうした事態に私たちは著しく無自覚になっていて、普通の中流くらいのもてる層がそれを消費し、かつまた、それを加速させさらに利益が出るように投資しているわけです。
 何だか、昔、みんなで勉強していた第3世界が、向こうから日本に上陸してきたような怖さを感じます。昔から、日本の社会で使い捨てられていた層はいたのでしょうが、それがもっと厚い層になって、顕在化している。それがここ30年に現れた必然の「格差」であり、「ネットカフェ難民」の話を社会問題として見ているけれど、まさにあの状態を作り出しているのは多くの日本の消費者だ、ということを自覚することから、共感とか連帯が始まるのかと思いました。


 オリンピック前の朝日の日曜朝刊に載っていた10日間トラックに乗りっぱなしのドライバーさんの過酷な労働も同じ。私たちが当然と思って陸運を速く、安く使うしわ寄せが、あの人たちの上に行くんだろうと思います。「それほど速く、便利じゃないものを使う・買う」という運動を、どこからか始めなければならないのかなぁ。
 もう1冊。

 こうしたロバート・ライシュと同じようなことを指摘しているのは、ジグムント・バウマンの「新しい貧困」(青土社です。バウマンは、1925年にポーランドで生まれた社会学者です。最近、彼の本が日本でも相次いで翻訳されております。今回、初めて翻訳された「新しい貧困」の初版本が出たのは1998年です。


 同書は、第1章で労働倫理の起源を、第2章で労働倫理から消費の美学が支配する社会への移行を、第3章で消費社会と福祉国家の確執を、第4章で、以上の結果としての新しい貧困の創出について述べております。第5章の「グローバル化された世界の労働と余剰」は2005年版で追加されました。そして第6章ではニュープアの将来に思いをはせております。
 ジグムント・バウマンは、世界が、労働の倫理によって導かれる社会から、消費の美学に支配される社会に移行してきたといいます。労働の倫理が支配する社会とは、ライシュ流に言うと資本主義と民主主義のバランスが取れていた時代のことでしょう。一方、消費の美学に支配される世界とは資本主義が民主主義を駆逐したこの30年間のことでしょう。この時代に崇拝されるのは、富そのものということになります。消費の美学で重要なのは、「何ができるか」であって、「何をすべきかでも、何をしたかでもない」。
 労働の倫理がすたれ、消費の美学が支配する社会では、「自己実現としての労働、人生の意味としての労働、誇りや自尊心、名誉や敬意や名声の源泉としての労働、ようするに、天職としての労働は、少数者の特権、遠くからじっと見つめる生活スタイル」になりました。「今日の貧しい人々は非消費者であって失業者ではない」というジグムント・バウマンの言葉は、私たちの二面性を言い表したものといえるでしょう。


 では、どうすれば良いのか。ジグムント・バウマンは、クラウス・オッフェが提唱しているように「個々人の所得資格と、実際の収入取得能力を切り離すこと」も一案だと言います。そういえば、イギリスの歴史学者エリック・ホブズボームは「極端な時代−20世紀の歴史−」(三省堂)のなかで、最後にこう書いておりました。「21世紀の政治を支配するのは、社会的分配であって成長ではないだろう」

 穏当な分配を見出す知恵を人類が持たなければ、持つ者と持たざる者の差が広がりすぎると、そこを自然と埋めようとする力が、暴力に必ず結びつくことを、歴史の中から私たちは思い出さないとならないのではないでしょうか。

新しい貧困 労働消費主義ニュープア

新しい貧困 労働消費主義ニュープア