『諸君』の在り方

quelo42009-06-09



諸君を創刊した、文藝春秋社長だった池島信平の本当の思いが、解説されています。
(「自由にものを考え、納得できているか、論壇誌の休刊が示す『わたし』の喪失」武田 徹)


要は、右も左も「教条的に硬直化していれば」、「自由にものを考える」スペースを作ろうとしたのが、当初の意図だったという話です。

 「戦後民主主義」「非武装平和主義」が教条的に硬直化していれば『諸君!』は大いにいちゃもんをつけた。その結果が右派論壇誌的な印象に繋がるが、右派論壇をも揺さぶる野次馬主義的な編集意欲は旺盛だった。
 典型的なのが80年1月号に掲載された江藤淳の「『ごっこ』の世界が終わったとき」で、左派運動を「革命ごっこ」、ベ平連を「インターナショナリズムごっこ」と切り捨てた批評の刀で三島由紀夫楯の会についても「自主防衛ごっこ」と斬りつけた。
 総じて言えば、皆が左を向いているなら右を向けと「あえて」言い、皆が右に流れるなら左に行こうと「あえて」言う、欺瞞や偽善は左右いずれの陣営にあろうと許さない、そんなやんちゃなアイロニー=反語的精神を充溢させた雑誌とでも言うべきか。

その後の、「われわれ」を主語にした、日本のジャーナリズムの特徴的語りが、無責任な報道姿勢につながり、冤罪の温床にもなっている、という批判は痛烈であり、しかも、今もってまったく改善されるところにはない、こういう問題意識をもつ人すら少ないという状況下と思います。「わたし」はここに立って、何ができるか、と考えるのであります。

 編集者の「わたし」を立てること。それは編集者が黒子でありつつも、実は確かに自分の地位を確立していることだ。そうした報道スタイルを備えた雑誌として『諸君!』は独特の地位を築いてきたように思う。それは創刊号で謳われた「『われわれ』という言葉をやめよう」というスローガンの延長上にあった。
 結果として同じ「右」の論調でもPHP研究所の『Voice』、扶桑社の『正論』とともに「右派論壇誌」と称されることが多いが、同じ書き手の論文でも『諸君!』掲載のものには編集者の「手」の存在をより強く感じる。話題性の高いテーマ設定が工夫されており、定評ある書き手についてもそれまで持てはやされてきたのとは異なる切り口で論文が書かれている。語り下ろしを記事化する場合にも文章がこなれている。
 内容のいかん以上に料理法において『諸君!』は個性的だった。それらは論文の発注から作成のすべてに関わる編集者の力量の反映だろう。
 そしてその点においてこそ『諸君!』がブログ論壇とも端的に異なってきた。コメントとトラックバックという仕組みを持ち、評判が具体的に反映するブログでは、読者を意識した書き方がなされやすい。つまり読者と書き手が「われわれ」関係を結ぶ傾向がある。
 それは「わたし」を立てる編集者のプロフェッショナリズムによって支えられていた『諸君!』とは異質だ。ブログでは書き手の「わたし」は編集者の「わたし」によって適当に論説を位置づけてもらう支援を得ることもなく、「わたし」が不特定多数、匿名の「われわれ」の中に埋没していく。
 その構図は「われわれ」の風向きの中で記者が異議申し立てできず冤罪報道を招く構図と似ている。こうしてメディアは多様化していくが、言論風景は全体として起伏を失い単調化していく。


 しかし、ここまで池島の創刊した『諸君!』を高く評価してきたが、末期のそれはどうだったか。休刊号の編集後記に「志の同じくする人に支えられ、共に歩んできた40年の歳月を誇りに思います」の言葉を見て少し首を傾げた。紋切り型の挨拶であればそれでもよいが、実際にはその言葉は「志を同じくしない人たちにすらも支えられ」であるべきではなかったか。