冤罪とメディアの責任について

quelo42009-06-18



 足利事件について、新聞社や関係者が検証記事を出しているようです。「足利事件のDNA鑑定で考える 技術導入で「してはならないこと」NikkeiBP、2009年6月17日」

DNA鑑定は絶対の思いこみの背後にあるもの
 正直なところ足利事件にふれるのはつらい。なにがあったにせよ、無実の人間が17年間も獄につながれていたのだ。その事実は重すぎる。いくら検察や警察が「申し訳ない」と謝罪しても、17年の歳月は戻ってくるわけではない。
 だからこそ、どうしても「なぜDNAの誤鑑定を信じたのか」が気になる。もちろん「自白の強制」などの要因があったのは想像がつく。当たりまえだが、冤罪の根拠を誤鑑定ひとつに求めるのは間違いだろう。
 それでも気になるのは、「DNA鑑定」という技術が「取りかえしのつかない過ち」につながったからである。けっして技術は万能ではない。どんなに画期的な技術でも、使い方によっては弊害をもたらす可能性はある。


 にもかかわらず、「DNA鑑定は絶対」と信じてしまったのだ。「『澄んだ目の記者』を目標に(足利事件の報道)栗田亘氏」によれば、当時の新聞報道も「重要参考人を近く聴取 毛髪の遺伝子ほぼ一致(91年12月1日 朝日新聞社会面トップ)」としている。「ほぼ」と逃げてはいるが、とても「DNA鑑定」に疑問を抱いているとは読めない。
 さらに「??」になるのが、毎日新聞「足利事件:毎日新聞記事検証 事件報道、重い課題 「犯人」前提の表現も(09年6月11日)」である。それによれば「当時のDNA鑑定について『100%の個人識別はできない』とも指摘した」のに、「取材班は、当時のDNA鑑定の証拠能力を過信し、容疑者特定の決め手ととらえていた」とある。これでは「100%ではないと指摘したが、決め手ととらえていた」になってしまう。

 警察や検察、裁判所にも問題があるでしょうが、800人に1人くらいの精度しかなかったDNA鑑定を無批判に受け入れ、その信頼性を喧伝したマスコミを大批判しています。検証記事を出しているものの、それをやりながら結局、いまは精度が上がったから大丈夫、という警察発表をまたもや鵜呑みにして垂れ流している様子はまったく進歩なし、とばっさり。

 ところが、再びマスコミでは「いまは精度も高く」と「4兆7000億人に1人」がひとり歩きしはじめている。まさに、過去に自らふりまいた「DNA鑑定は絶対」の虚像に、しがみついているようにしか見えない。実証的な根拠もないまま「一卵性双生児以外は全て結果が異なる」という情報を伝える前に、赤の他人であってもDNA型は一致する確率を、書籍やデータで自ら考え判定していくことが先決だろう。
 まさに「DNA鑑定」の導入は「してはならないこと」ばかりである。しかし、それを批判するどころか、逆にマスコミは手をかしてきたといっても過言ではない。その間に、足利事件と同じように「DNA鑑定」で犯人とされた飯塚事件では、死刑が執行されたしまった。もちろん「してはならないこと」をしてきた側の責任は大きい。だが、それを助長してきたマスコミにも責任の大半はある。

 確かにおっしゃるとおりなのですが、同時に、専門性がどんどん高度になっている現代において、記者が「足で稼いで」裏を取れる領域にも自ずと限りがあるか、と思う次第。このDNA型の確率計算の出し方だって、説明されて理解できる記者がどの程度いるか??? その上、その出し方自体の妥当性だって、疑わしいといえば疑わしくなるかもしれないわけで・・・
 結局、どの「専門家」の話を採用するか、くらいしか選択肢がないのも確かで、それでも、できるだけ多くの専門家にあたるくらいしかないかな、という気がします。
 ともかく、今回のように、人のいのちと一生がかかっていたわけですから。