取材者のお作法とモラル・・・

quelo42009-08-21



 書評ですが、事実関係の確認義務、といった報道の基本的お作法や、「正義」のためであれば、ジャーナリストは何をしてもいいのか、といった鋭い批評まで書かれているようです。「ジャーナリスト」のみなさん、恥を知れ!〜『秘密とウソと報道』日垣 隆著(評:朝山 実)幻冬舎新書、740円(税別)


 インタビュイーとの関係性は、何とかちゃんと維持するしかないなぁ。最終的には、誠実にやるしかないなあ、ということ。

警察発表をコピペしただけの新聞記事
 事件が起これば、警察が記者クラブでネタを披露し、新聞記者さんたちは教えてもらったとおりに書くものらしい。この場合、警察がいうんだからさ、事務所のあるなしはわざわざ確かめなくてもいいじゃんというのが「という」に表れており、小さなニュースになると、どの新聞もことばづかいがそっくりなのも「という」の多用と無関係ではあるまい。
 で、この「という」のどこが問題なのかというと、慣れだ。


 本書では、先ごろ、DNA再鑑定で、受刑者の無実が明らかとなった「足利事件」について一章をさいている。
 「冤罪」が濃厚となって、新聞はいっせいに被告の無実を信じてきたかのように書き始めたものの、初期の段階で、警察発表を疑い、独自に取材をした報道機関がどれだけあっただろうか。
 ニュースを提供する側が、自分たちにとって都合の悪いことを伏せることもある。というか、当然あるだろう、人間のやることなんだから。組織なんだし。ときには、ウソだってつくかもしれない。しかし、常日頃「という」ですましてしまっていると、報道に従事する人間の腰があがらなくなるんじゃないか。日垣氏の心配は、そこにある。
 実際、「だ。」と言い切るには自ずと慎重になるが、なにげに「という」は使ってみると、責任を感ずる気持ちがゆるくなる。味の素やハイミーみたいに重宝だ。だから、やばい。


 といった「という」への喚起は、低めのファーストストライク。後半になるほど、ジャーナリストの心がけを中心に、日垣氏はバッターをのけぞらせる直球を投じてくる。
 そのひとつが、奈良県で少年が家族三人を焼死させた事件を取材し、本にまとめたジャーナリストの草薙厚子氏が逮捕、起訴された「奈良少年調書漏洩事件」。同事件は「権力による報道への介入」と騒がれたから記憶している読者も多いだろう。
 草薙氏の『僕はパパを殺すことに決めた』は、ルポと呼ぶには変わった構成をなしていた。少年の供述調書など、本来入手しえないはずの膨大な捜査資料が丸写し状態で引用され、少年の精神鑑定を行った医師までもが秘密漏示容疑で裁判にかけられた。
 出版元である講談社が調査委員会に依頼した検証報告などによると、「広汎性発達障害」が少年の犯行に影響していたことを知らしめたいとの意図があった医師は、草薙氏を信頼して「見るだけ」の約束を交わし、留守中、自宅にある資料の閲覧を許した。
 しかし、草薙氏と編集者は資料をすべて写真撮影した。約束を反古にしたわけだ。
 日垣氏もいうように、おそらく「見るだけ」のことなら司法が逮捕・起訴の強硬手段にまでは踏み込まなかったと思われる。実際、「週刊現代」に掲載された、本の下敷きとなる記事では資料の入手をにおわせるにとどまり、検察の対応も警告ですんでいた。