人は死ぬもの

quelo42005-08-15



多分、ちょっと、宗教っぽい話ですが。
7月末から、戦争体験の話を仕事で集めていまして、ちょうど60年前のことを思い出すわけで、これがちょうど60年となると、当時生きていた人の証言を直接聞くことはだんだん難しく、押っつけ、30周年、40周年、50周年の時にまとめられた聞き取りやら、掘り起こされた資料に頼って、記事をまとめることと相成りました。


そうなると、50周年だったら生きてたんだけど、連絡してみると、「3年前に亡くなりました」というようなケースによく出会って。資料だけ見ている場合は、「この方ももう亡くなってるのかなぁ」と思ったり。一応、電話だけしてみるか、と思ってかけてみると、89才でもご存命で。でもちょっと健康を害しているので会うのはちょっと難しい・・・など。


そのときの感想は、人ってやっぱり死ぬんだなぁ、ということ。私が直接知っている人ではないので、当たり前かもしれませんが、50周年には生きてたけど、60周年にはもういない人。40周年を待たずになくなった人。はたまた、若くして、戦後すぐに亡くなった人。人は死ぬ時を選べません。また、死ぬことも選べません。選ぶことなく、次々と順番に亡くなります。


他人だからか、それにおろおろするのでもなく、あ〜、やっぱりこの方も亡くなったか、と思える。これが何か自然のことのようで。もちろん、原爆で亡くなった人の話を聞くと、もらい泣きしそうになる時もあるんですが、その話をしてくれた、原爆の生き残りの人も、もう亡くなってしまって。死は、いつもそこにあるんです。ある長崎の禅宗のお坊さんは、「人は生まれた瞬間に、死刑判決を受けています」と言います。初めから限られたいのちを生きているんです。でも限られているから光を放つんでしょうね。


脳死臓器移植の議論をしていたとき、移植をすれば助かる人を見殺しにするのか!という情緒に訴える声もありましたが、いつかは人は死ぬ。移植をしても、死ぬときには死ぬ。100年はもたない。歴史を振り返ると、その流れ流れていく時の中で、人間は一時期に登場し、また消えていく存在であることを、改めて感じ入るのでした。


8月15日には、そうした霊魂が、この地上をさまよって、次に死ぬ私たちと、一時の交流をもつような、そんな気がしました。もちろん、戦争による悲劇的な死はつらいし、病気や事故による突然の死も勘弁して欲しいと思いますが、死に方を選ぶことは人間にはできないし、いつまで生きるかも選べない。シンプルに、そう思わされた感じです。


もう一つ、生命保険のコマーシャルで、駅前で、5才の娘から23才の娘まで、何年かおきに成長する姿で、親父が一緒に歩いているのがあります。こんな15秒で20年早回しにされたらかなわん、と思います。これ見て、真っ先に思ったのは、うちの娘がこんな大きくなるまでは、生きてないなぁ、ということ。人生そんなにこっちの思い通りにいかないし、と思います。


(いろんなところで書きますが)アルゼンチンの民謡でこういうのあります。

いのちは借り物だから、返さなくっちゃ。
いのちの造り主が、もう戻しなさい、という時には。
どうか、私の骨と皮と塩が、生まれ故郷の肥やしとなりますように

理想的ですが、「今日が最後」と思って、毎日生きられるといいですね。ちょっと疲れるかなぁ、そういうのも。