近藤ブログ最終回、とにかくオープンに

quelo42005-12-01



c|netから、[近藤淳也の新ネットコミュニティ論]終わりに 世界中の意識をつなげるインターネット(November 30, 2005 04:18 PM)について。

7月の上旬からこのブログを書き始めて5カ月になりました。当初の終了予定だった10月を1カ月過ぎてしまいましたが、今回でこのブログはおしまいにしたいと思います。期間中、色々と感じていることを書いてきましたが、その根底には「色々な事をオープンにしよう」という思いが流れているように思います。

はてなの社長、近藤淳也のブログ最終回のエントリーです。とにかく「オープンにしよう」というのがいい! 近藤さんは、この10年のインターネットの発展を次のように要約します。

この10年間、いつもインターネットの進化の一端を「コミュニケーションの進化」が担い続けていた気がします。それに比べるとOSや表計算ソフト、ブラウザなどの機能は驚くほど変化していないのではないでしょうか。


これは何故なんでしょう。きっとそれは人類がこれまで一度も試したことが無かった「人間の意識と意識が距離や時間を越えて繋がった時に何ができるのか」という可能性についての、壮大な社会実験が行われているからだと思います。


紙と鉛筆で計算していたものが少し速くなったりする進化は既にこれまでも十分に工夫されてきました。ところが、1000km離れた複数の相手と無料でどれだけでも意思疎通ができたらどんな事ができるか、という可能性についてはこれまでほとんど試されていなかったはずです。インターネットによってこうした可能性が一気に拓かれ、意識と意識、知恵と知恵を結んだ人間同士が新たな価値の創出を模索している、そういう風に感じています。

これって、ヘーゲル(↑上の人)の絶対的精神(でしたっけ?)を思い出させるような変革じゃないですか。
まとめはこんな感じ。

見方を変えるとこの動きは、「常識を捨てよ」という風にも見て取れます。「そういうものは普通社外秘にするものだ」とか、「そんなことをして何か起こったらどうするんだ」といった常識的考えを一度捨てて、本当に有効な方法は何なのかを真っ白な頭で一度考えましょうよ、という動きではないかと思うのです。
インターネットで今まで繋ごうにも繋ぐことができなかった人々の意識が一気に繋がってしまったために、一度頭を白紙に戻さないと対応できないよ、というスローガンのように思えます。


「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである」とアインシュタインが言ったそうですが、これは本当にその通りだと思います。昔は常識なんてまるでなかった頃が誰にもあったわけです。
小学生同士が野球で遊ぶ時に、「生産者と消費者」とか、「上司と部下」とか、「ルールを作る人と守る人」と言った非対称な関係はありません。生産者だけが情報を知っていて消費者には知らされない、といったこともありません。誰もがルールを作る人であり、それを守る人であり、メーカーであり消費者であり、命令する人でありされる人であるという中で、楽しさの最大化を図る創造的な行為が子供の遊びだと思います。


こういう子どものこころ、遊びのこころを持つことは、インターネットがもたらす変化に対する最大の防御であり、最大の攻撃手段ではないかと思います。
子どものようなこころを持った人たちがこれからもどんどん登場して、まだまだ世の中は変わっていくと思います。そんな変化の中で、自分たちも「はてな」というサービスでそうした場を提供していこうと思っています。大きな社会の変化に加わり、あわよくばその変化の原動力に加われるよう、これからも前に進んで行きたいと思います。

キーワードは「常識を捨てよ」です。「子どものこころ」をもつ、というのは、最近取材した児童書制作者も口を酸っぱくして語っていたこと。若手IT開発者と老練児童書作家が同じ事を勧める、これってやっぱり「絶対的精神」なのかなぁ。