科学哲学という「方法」とキリスト教神学

quelo42005-12-13



『科学哲学の冒険』という本を読みました(=写真)。内容的には、

科学的実在論自然主義の立場から、科学哲学の現状の大きな見取り図を、対話形式のきわめて平易な言葉でスッキリと呑み込ませてくれる。
主要な仮想敵として設定されるのは、思想界・哲学界で現在なお大きな影響力を保っている反実在論相対主義・社会構成主義などで、ものすごく大雑把に括るならポストモダン派。そういう意味では本書は、アクロバティックな立論を退け、むしろ日常的な素朴な信念に寄り添っていこうとする近年顕著な思想潮流の一翼を担っている。

という、Amazonにある、「モワノンプリュ」さんのレビューが、本の内容をよく説明していますが、科学(ことに自然科学)の営みに対し、論理・認識・存在の角度から、ちょっと待った、と留保しようとする哲学者たちに対して、全面防衛戦を挑んでいる、という印象です。これが「科学哲学」というものか、という印象です。


さて、この本を読むと、実証科学だからこそ、どんな実験をしようが観測をしようが、「ほんとにそれって正しいの?」っていう懐疑にさらされていく、その正当化が問題となるようですが、では、人文科学はいいのか?と、そういう感じがします。特に神学。どこで「正しさ」を担保するのか? 科学哲学の議論のように、同じ土俵で論じる慎重さが求められると思います。


本書の中で「科学の目的とは何か?」という問いが試されていて、つまりそれは、1)実在システム=世界について、真なる文の集まりに到達すること(科学的実在論)、2)経験的に十全な理論を立てること。観察可能なものについて経験して分かっていることが全部出てくるような理論を立てて現象を救うこと(反実在論者)、3)実在システムに重要な点でよく似たモデルを作ること、しかも、その表象は文だけに限らない。私にとっての神学の目的もこの3)に近いような気がしています。特に実証科学の成果を神学が採り入れるようになったとき、「神の国」ワードや「み旨」ワードだけでは始末の着かない問題に、ある程度の決着をつけていくのに、こういう枠組みについての議論が大切?(我らがフェローには、1)を素朴に目指している人が多いような気がして、それではすまされないんじゃないか?と思う次第) まだまだ考えが整理されていませんが・・・。