「科学哲学」という領域

quelo42005-12-22



とっても疑り深い人たちの話です。
万有引力なんてほんとはない、ああいうのは、科学者たちのグループの中での作り話だ、という人たち(社会構成主義、というらしい)がいます。多分ちょっと変わり者の屁理屈、かもしれないんですが、これに哲学者たちが正面切って反論しようと、けっこう苦しい、らしいのです。もう1冊この領域の本伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』



簡単な反論は、「万有引力なんかない、っていうんなら、20階の研究室の窓から飛び降りてみろ」ということだそうですが、これに対しても、そのときもたまたま落っこっても、次もそうなるとは限らない、なんて反論される。こういう強い懐疑論に直面することで、「科学」の科学たらんとする方法論が試される、なんて感じかな。


「すべての人は死ぬ、アルキメデスは人である、従って、アルキメデスは死ぬ」な〜ん演繹をしていけば、必ずその結果も正しくなるわけですが、実際の生活の場面でも、自然科学の現場でも、こんなに前提が明白なことはなくて、だいたいの場合、たくさんの事例を経験して、そこから帰納的に推論する、仮説を立ててそれを反証したりする、というプロセスをとるわけですね。懐疑論チームは、こうした、一般人(科学者たちも含め)の感覚では常識であることに対して、「ほんとにその方法で正しいと言えるの?」と問いただす。・・・まあ、今のところ「科学哲学」に対する私の理解はこんなところです。


上の本は、「科学」と「疑似科学」の線引き問題、を取り扱うことによって、この2つを区別についての考察から、「科学」の科学たるゆえんを明確にしていこうとするお話、です。


上のような懐疑論チームは自然科学の実験観察に対してすら疑いの目を向けるわけですから、きっと人文科学の「方法論」なんて眼中になさそう、な感じです。この本の冒頭部にあるんですが、

普通に「科学」と呼ばれている営み自体、決して一枚岩ではない。物理学、生物学、社会学はどれも科学に含めることができるだろうが(自然科学者の中には「社会学なんて科学じゃない」という人もいるかもしれないが)、例えばこの3つの領域で使われる方法論は大きく違うことが十分あり得るし、クォークが存在するかどうかという問題と社会が存在するかどうかという問題は別のやりかたで答えなくてはいけないかもしれない。そんなわけで、きちんと議論しようと思えば、「物理学の哲学」「生物学の哲学」「社会学の哲学」等々、各分野ごとの個別の哲学も必要になるし、実際現在の科学哲学はそういう細分化の道を歩んでいる。(4−5頁)

というわけで、宗教的な領域についての人文科学も、やはり、その方法についての議論が必要じゃないのかな! キリスト教神学も、昔のように形而上学的な議論だけで戦っていた時代は、上で言うような議論は必要なかったわけですが(科学哲学は、経験的知識をどう処理するか、についての議論だそうで、経験を超えた、例えば「神は3つで1つ」みたいな議論は、それ以上どうにもこうにも・・・)、現代の神学は、人間が実際に体験(諸実証科学を含め)することに基づいて論じている部分が多いので、「神がそう啓示したから」以上の説明の仕方を実際にしているわけですよね。ビッグバンと進化論を否定する、アメリカのcreationistsだって、人工衛星使って「エデンの園」の場所を確定しようと試みたり、「実証的」な方法を使っているわけ。となると、やはり、神学分野の「個別の哲学」も必要かな、と思ったりするわけです。


でも、これって多分、いわゆる「神学」からは端っぱの方にある方法、についての議論かなぁ、と思ってたりもします。Francis Fiorenzaという人が、神学的方法の4つの柱の1つとして、retroductive warrantsということを言っていたのですが(行きつ戻りつして確かめる、みたいな話=読んだ当時、何だか、分かったような分からないような・・・でしたが)、上の帰納的推論あたりから発展した考え方なのかな???と、思ってる次第です。