Σな話

quelo42005-12-27



12月22日のエントリーのコメントが長くなってしまったのであらためてここにエントリーを立て直します。


Σの話
ドグマを決して否定するのではないですが、私はキリスト教性と考える時には、「受け手」がどう感じているか、を捨てるわけにはいかないと思うわけです(南米ではこういう何でも現場から上がってこないと、と思っている人たちをbasista といってちょっと馬鹿にして呼びますが、やっぱり僕はこっち派です)。だから「キリスト教とは?」と問われた時に、ドグマに何と書いてあるか、だけの説明では、いま現在のキリスト教を十分に反映されないでしょう。
仙人さんのところにいた時、例えばインドネシア人の学生が、三位一体の授業で、「唯一神を強調するイスラム文化のあるインドネシアでは、神が3つという説明がどうしても一般人<インドネシア人>をキリスト教から遠ざける」と言ってました。授業で読んだナバホのネイティブ・アメリカン・クリスチャンの小論では、「創世記にあるイサクのカナン入植を読むと、自分たちの先祖がイギリス人に殺されていった歴史が思い出されて、そちらに同化せざるをえない」と言って、「約束の地」などといった楽観的な見方はみじんもできないことを告白していました。僕ら日本人は、ローマ人たちが何でも知っているから教えてあげよう、というような態度に出てくることが、日本においては身もふたもなくなることをよく知っています。仙人さんたちのように(私は勝手に京都学派系と呼んでいますが)、日本の仏教的な知からキリスト教を論じることもこうした現れの一つなのだと思います。
自分について言えば、ある韓国人の学生が授業の発表で、「私の血の中には、仏教と儒教アニミズムキリスト教が流れている」と宣言しましたが、僕の血の中には仏教も儒教も流れてないなぁ・・・、と改めて思いました。神道にしても仏教にしても、勉強して初めて知ったことは多いし、アニミズムはあると思いますが、私の感覚としては、例えばアニメ文化やテレビドラマの影響は強いし、前にもどっかで書いたと思いますが、モンタナ出身の学生よりははるかにクラシック音楽については詳しいし、僕よりもフランス人学生の方が日本の古典文学に詳しかった。自分にとって、やっぱり近代化やポップカルチャーみたいなのが、「インカルチュレーション」をほんとに問題にする時にキーじゃないか。「インターネット」も、大事になってるかもしれませんね。
いろ〜んなふうに考え、感じる人たちが世界中にいるわけですが、こういう人たちみんなカトリックなんですね、「キリストの体」の1つ1つの部分というか。だからΣとしか考えられない。でも数学だとこのΣのあとに何らかの連続した数の集団の式が来るので、それを展開していけるんですけど(ありましたよねぇ、Σ(n-1)**2・・みたいの)、人のありようって、カオス的に分布してるわけで。どうやったらこの解が解けるか、知恵が必要です。確かにkarposさんのおっしゃるとおり、この分布は動的であり、ここで「捉えた!」といった次の瞬間には既に形(もしあるとしても)が変わっているものですよね。森岡さん(『無痛文明論』最終章だそうです)の「ベネトレーター」のところ、もう一度読み直してみます。


不可謬>ドグマ>神学的論争
っていうのは、授業で習った、カトリック的言説の打ち消し不可能度の順番、ですが、上にあるような亜流の考え方や主張は言ってみれば「神学的論争」の段階で、そこからドグマを作り上げていることは必要だと思います。それがドグマのインカルチュレーションといえるんでしょうかね? もちろん、教団としては落としどころとしてのドグマの確定をしないことには、何でもありになってしまいますからね。一人の先生は教理省のことを Department of Defense といっていましたが、確かにそういう機構は必要でしょう。前に書いた「エデンの園人工衛星で見つける人」の話もそうですが、インド人で「イエスはグルの一人」という論文を書いてた人がいましたが、ここまで来ると、ちょっと言い過ぎちゃうか、と思います。Y師が言っていたとおり、さまざまな論は共同体の中で鍛えられると思います。多様性はあるがコントロールはある、という言い方もよくされていましたし、それはユダヤ教の聖書の多義的解釈の理論の中にセットされている考え方だそうです。ここら辺をもう少し整理してちゃんと提示できれば、Σの話も発展性が出てくるんでしょうか。


ディアスポラ
たまたま、華人ディアスポラ研究をしている人とか本(レイ・チュウ『ディアスポラの知識人』とか陳 天璽『華人ディアスポラ?華商のネットワークとアイデンティティ』など)とかに出会って、この感じがすごく私たち日本人キリスト者の状況に似てる感じがするんです。
最初にピンと来る話は、いろんな非華人が「中国人とは・・・」というふうに語るんだけどいい加減な話がほとんど、という話です。私たちの実感としても、日本にいるディアスポラ・クリスチャンとしては、一般日本人が「人工的避妊(または、離婚)を否定しているカトリックは、・・・」と話すのを聞くと、現実はそんな単純に○×の世界じゃないんだけどなぁ、と思います。また欧米にいる時は、ディアスポラ日本人なわけですが、まあ単純な話、「生の魚食べるのぉ!おえぇ!」とか言われても困るわけで。何かそういう、少数派で、無理解・不寛容の中に置かれてる「ディアスポラさ」から、何か違うものが出てくる、かな。「キリスト教」であれ「日本人らしさ」であれ、それを前提にできない状況に置かれると、自分らしさを真剣に模索するからでしょうかね。陳さんは、ディアスポラ華人のアイデンティティを見るのに虹のメタファーを使っています。
karposさんはディアスポラをもっと内的なものとして考えて書いてられましたが、私が上で書いている問題意識は、もっと社会的な角度かなと思います。


精神分析的解釈
仙人さんが指摘した、以上のような「ごちゃごちゃ言説」を精神分析的に解釈すれば手っ取り早い、という話ですが、「科学哲学」でも、すべての認識や存在、形而上学、倫理といった哲学分野を心理学的に解釈すれば足りる、という立場を「自然主義」というのだそうですが、伊勢田さんは、それでは解決できない問題が哲学にあると考えています。「信仰心」のようなものも心理的な作用だと思いますが、その向こうにある希望やらコミットメントなど、合理性を欠いてくると、心理学では収まらなくなってくるんじゃないかなぁ・・・と思います。心理学だけに収まっちゃうと、私たちはメシの食い上げ、になっちゃいますし・・・いや、冗談ですけど。