清水の舞台から突き落とす・・・

quelo42006-07-17



カトリックの晴佐久神父が毎週の説教を掲載していますが、6月25日の「一緒にぐっすり眠る」で、他の人の信じる姿を見て、自分も信じられるようになる、ということを書いています。

今、キリスト教の放送局のラジオで天の父の愛を信じようっていう話をしてます。みんなよろこんで聞いてくれているようですけれども、同時に、「そんな風になかなか信じられない」という声も多いようです。「神父さんのように信じられたらどんなにいいだろうって思うけれども私は飛び込んでいく勇気がない」とか、「どうやったらそのように信じられるのか」とか。ぼくは、やっぱり、信じている人に会い、信じている人を信じて一緒に信じるのが一番だと思う。「私は信じてます」っていう人、信じて救われて平和を生きている人に出会うこと。

この後に、実際に信じている人のことばを聞いて、信じるようになった人のドラマチックな話が書いてあります。教団側の立場から見れば、信仰を伝える人が聞く人の信頼を得て、背中を押してあげることも必要だということでしょう。
入信についての研究の中に、「重要な他者」という論理があって、新しい信念体系にはいる時には必ず人を介する、というようなことですが、宗教家の実体験としてもその通りだと裏付けられていると思うわけです。


この話、たまたまキリスト教についてですが、それに限らず、こうして新たに「信じます」と人の世界から人を越える世界へと足を踏み入れる人の話を聞くと、こういう越えていく体験の積み重ねが神や仏を人の目に見えるものにしてくれるのかなぁと思います。そういう体験抜きの形而上学的な神学教学は皮相的に感じる時があり、「学」の方の役割は、こうした体験を伝わる形にすることかなぁ、と思い出させられる、晴佐久神父のお話でした。