「弱い者いじめ」にならないために

quelo42007-03-15



最近、近くのブックオフでたまたま見つけた、岡留安則「『噂の真相』25年戦記」を読んで、あらためて、“ジャーナリズム”は何のために存在し、どこに向かっていくべきものか?というような問いについて考えさせられました。


噂の真相』はタイトルこそ良く知っていましたが、おそらく一度も開いたことのない雑誌、79年に始まり、04年4月、黒字のまま休刊となった伝説の雑誌です。その編集長、岡安さんが創刊から休刊までの歴史を書いた顛末書がこの新書です。
何となく、ただのアングラ誌と思っていましたが(ただのアングラ誌、というのが何を指すかも微妙なものですが・・・)、ごく簡単に言うと、新聞や週刊誌ですらデスクに握りつぶされてしまうような、もろに権力・権威に対抗していくスキャンダルなどを暴きまくった雑誌だったようです。したがって、広告は取れず、右翼から政治家から芸能プロダクションからも脅されまくり、ついには暴力被害を受けるにいたってこれ以上続けられないと、岡安氏は判断した上休刊になったものです。


噂の真相』が批判する相手は、大手新聞社・雑誌などマスメディア、政治家、警察に検察、芸能人、極真会館大山倍達から皇室、オリコンから本多勝一に拉致被害家族会と、およそ公人と思われるところはどこでも突っ込まれる。「公人やオピニオンリーダーをターゲットに明るくスキャンダル路線」だったそうで、「硬派スキャンダリズムとヒューマン・インタレストの2本立て編集」をやってきたのだそうな。だから、記事についての抗議は日常茶飯事。しかし岡安編集長、「話せば分かる」のスタンスで、徹底的に抗議については耳を傾けたそうです。
最近の例では、拉致被害について、共同や週間金曜日など各社が独自取材をしたときのバッシングを取り上げ、家族会を通さない取材は一切受け付けない、というような態度こそ、記者クラブ制度と並んで、大本営発表を丸呑みしようとする日本のマスコミの体質そのもの。これこそジャーナリズムのイロハからまったく対極にある態度で、私たちも取材過程で、右でも左でも、大本営発表を強要させようとする態度によく出会うので、なるほどと膝を打つ話です。


なるほど・・・書くからには書く責任がある。しかし、取材して裏をとったことは書く、誰にどんな利害があろうが、公人である以上、オピニオンリーダーである以上、取材内容は必ず陽の目を見させる、というのです。シンプルで分かりやすい。一方で、メディアから袋たたきにあったロス疑惑事件の三浦和義を守り、意見を提示する場を提供していました。単純にへそ曲がりと批判できるかもしれないが、いのちを貼ってここまでへそ曲がりでいられる人は少なく、それを体現できる媒体は、おそらくこの雑誌しかなかったでしょう。いまはそれもないわけになります。


だいたいの公人のスキャンダル記事は、権力で握りつぶされて陽の目を見ることはない。だから、大手新聞や雑誌の記者がつかんだ情報を、自社では出せないために、『噂の真相』へ持ち込むというケースはままあったようです。「週刊誌記者匿名座談会」という企画もこうした必要から来ているとのこと。だから雑誌に広告があまり載っていないのはかえって好都合だったということです。


タイトルの「弱いものいじめ」はある週刊誌が、一般会社員の被害者女性をかえってつるし上げるような記事を出したのだそうな。大手マスメディアが個人を標的にすると、恐ろしいパワーを発揮してその人の人生をめちゃくちゃにするくらい朝飯前。その力を自覚しつつ、日本での教団活動のために、うちのような業界紙は日夜、人々の意識を掘り起こさないといけないんだろう、と思いました。


翻って、我らが業界紙はあまり批判をする場とはなりません。それはただひよっているからだけではなく、読者層を考えると、糾弾型より情報提供型になるのではないかと思います。しかしそうは言っても私らもジャーナリズムの最末端を担っている以上、批判して変えていこうとする気持ちがないと、こんな人の話ばかり聞いて文章にまとめる仕事をしていても、きっと意味がないのだろうなぁとあらためて考えてもいます。

岡安さんは文字通り、いのちを張ってましたけどね。弱きを守り、力ある人に向かっていって、しかも威張らない姿は、かっこいいですね。