記者にだまされた怒りと、そこから立ち直る偉い人!

quelo42007-06-22



これ、年取って記者になって、あっちから、こっちから、ああじゃぁこうじゃぁ言われて嫌になっている私にとって、なるほど!の話です。


京都市堀川高校校長、荒瀬克己さんのコラム『浮雲校長、アラセが行く!』から、「まっすぐに見ているか、まっすぐに聞いているか(2007年6月22日)」
前半、質問されて言ったことは言ったものの、その自分の発言を違った文脈で使われて頭に来た話が書かれています。

 ふうんそうか、と思いながら読んでいた。そして、堀川高校のことが書いてあるページに目をやって驚いた。学校選択制の導入されている地域の、どちらかというと元気のない教員たちと対照的に、教員が自分の力量をうまく発揮できて生き生きしている学校で、その見事な活性化術を操る校長として私のことが紹介されていた。


 これだけ言うと、それがなんでアタマにくるの、と思われるだろうが、その私のやり方(やり口と言うべきか)が、実に巧妙でずるそうなものとして描かれているのである。なんともふてぶてしく、人を馬鹿にしたような、不遜で狡猾で裏をかく校長、といった書かれ方なのである。
 それ、その通りじゃないの、と言われたら身も蓋もないが、実態はそこまでひどくない。しかも、カギカッコで書かれた私のセリフが妙な関西弁なのだ。まるで、丹波屋か越後屋か河内屋か、なんでもいいけど、「おまえも悪じゃのう」みたいな書きぶりなのだ。

ところが荒瀬校長、立ち直りが超速い!

 あいつ(取材に来た記者のことである)、はめたな、と舌うちしたときに、養老孟司先生のお言葉を思い出した。

 取材なんかで、そんなふうに言った覚えはないとか、そういうつもりで言ったんじゃないとか言う人がいますが、そんなことは意味がない。相手が受け取った通りに言ったんだ、むしろそう思うべきだ。そんな意味の言葉だったと思う。

 そうだった、そもそも取材に来る人には意図がある。その意図にうまく合うものを集めて記事にするのが記者の仕事だ。アタマにきて何になる。それが見抜けなかった自分が間抜けなのだ。まだまだ脇が甘い、と急激に反省した。記者さんアタマにきてごめんなさい。


 そう考えて、ちょっと冷静になって、ふと思った。日常生活ではどうなんだろうか。私たちは毎日いろんな人と会話する。あるいはまた、いろんな人と行動を共にする。その際に、相手の言葉を曇りなくそのまま受け取っているだろうか。相手の行動を純粋に見ているだろうか。
 この人が言うなら間違いない、と信頼する一方で、「この人はこうは言っても、きっと違うことを考えている」という逆の信頼、すなわち不信が働く場合はないか。つまり、こちらの聞きたいように聞き、見たいように見ているということはないだろうか。予断と偏見。同僚に対しても、子どもに対しても。


 自分に対する予断と偏見には落胆させられるが、実は自分自身も他人に対して意図を持って聞き、見ている。要は、同じことをしているのである。どうしてか。たぶん、答えがほしいからだろう。私が当初アタマにきた記者も、記事を書くために答えがほしかった。その答えめいたことをあらかじめ考えて、それに合うように聞いた言葉や見たものをまとめていったのだろう。それと同じようにして、私たちは人に接している。
 私はアタマにきた。そしてガッカリした。そういうことを繰り返していると、こちらの中に不信感が根づいて、誰の言うことも純粋には聞けなくなってしまうように思う。ところがそれを、こともあろうに子どもたちに強いてはいないだろうか。
 人間の子どもたちは成長するために多くのものを必要とする。手間と暇をかけないと育たない。子どもたちをまっすぐに見て、子どもたちの言葉をまっすぐに聞くのは、確かに手間がかかる。しかし、そのやっかいさを嫌うと、子どもは肉体的には大きくなるが、成長と成熟にはつながらない。

記者に対して、その実状を理解してもらえたと安堵の気持ちがする一方、この校長先生が、自分の子どもに対する態度に同じように思いを馳せたように、私だって、記者以外の部分で、もっと心の余裕を持って、相手が言っていることの奥まで気持ちを込めて聞くべきときがあるんだろうと思いました。
もう一つ言えるのは、これまでの短い経験ながら、だいたい構図を決めて記事を準備するときが多いのですが(これには零細業界紙の人手不足時間不足の事情が大きい)、ときに、下準備がまったくできないような場合で、まずその人に会ってみてその人の一番ユニークな部分に光を当てよう、というと聞こえはいいものの、実はそうとう行き当たりばったり、出たとこ勝負の取材もあります。このとき、やっぱり心を込めて聞くの、大事だな、と、今思いました。