天才系、養老先生の新聞の将来的見立て

quelo42008-04-16



 唯脳論の養老先生のご託宣。新聞の将来がないと思うやつがやってるから、将来がなくなるんだ、という話。「私が中国には行かない理由 ムシが採れない文明、新聞が衰退するわけ」2008年4月16日 水曜日 養老 孟司=写真

 日本のメディアは、ボケもいいところではないか。新聞もテレビも、どこかで「未来はない」と暗黙に信じ込んでいるのであろう。そういう業界にむろん未来はない。インターネットが普及し、ケータイが普及し、ユーチューブがある時代に、マスメディアが生きるはずがないじゃないか。これからはグーグルだよ。それが本業の努力をやめた理由なのであろう。


 年寄りとして、一言いわせてもらう。
 私は分子生物学がこれから隆盛になるという時代に、解剖学を専攻した。そんなことして、なんになる。先輩たちは露骨に私にいった。そんな分野は、滅びるだけだ。若い者がそんな未来のない世界に入ってどうする。スルメを見て、イカがわかるか。
 それから三十年して、私が出した答えは簡単だった。「お前たちこそ、イカをスルメにしているじゃないか」。科学は論文中心主義になったからである。論文とは、生きて動いている世界を、情報化したものである。情報は現実のスルメに過ぎない。「私はスルメを割きイカにしていただけですよ」。
 解剖学という、滅びの分野に精を出したおかげで、一人になって組織を離れても、私は十二分に生きていられる。人間のすることの本質は、変わりはしない。後世の人間は、生まれたときから「より利口になって」生まれてくるわけではない。新聞の歴史はたかだか二百年、それでも二百年の蓄積は大きい。その本質を利用できるか否か。それがこの業界の将来を決めるのであって、インターネットの普及が決めるわけではない。


 ただいま現在を新聞のチャンスと見ている業界人がどれだけいるだろうか。おそらく副業に精を出すのがせいぜいではないか。新聞社は不動産業、貸しビル業だと、昨日会った新聞人がいっていた。
 私は新聞のコマーシャルをやっている。ここまで斜陽化すれば、宣伝の必要があると思うからである。悪口をいうのは、当然だが、関心があるからである。新聞の悪口をいい続けてきたということは、新聞に関わってきたということである。古いものとはそういうもので、宗教の悪口をいい続ければ、宗教に取り込まれる。古い宗教とは、そういうものなのである。だからこそ、宗教は滅びない。


 かなり辛口。養老翁ははっきりしかものをしゃべらない方のようです。この前段では、小泉元首相の靖国参拝と、今回の映画「靖国」の上映拒否、ひいては、日教組へのプリンスホテルの貸し出し拒否をとりあげて、これは表現の自由、信教の自由といった憲法問題でそうなっているのではなく、一般の人にとって「どっちでもいい問題」だから、と喝破する。だから「『どうでもいい』問題について、あれだけ空騒ぎをしたから、ふつうの人は懲り懲りしているはずである。そんなこと、知らない。私の知ったことじゃない。関わりたくない。」となる。
 さらにきびすを返してこう続く。

 この種の問題を大きく取り上げるから、新聞が売れない。新聞の将来について、新聞人たちはかなり悲観的だと、私は知っている。大げさにいうなら、新聞は記事に命を懸けていない。表面でお茶を濁しているだけである。


 こうした文章を読んで、「養老孟司タカ派だ」なんて批判するのは、ピンぼけかなあ。希有の天才解剖学者は目の前にある出来事を、命がけで見ているのだと思います。記事を書く人間として、「命を懸けていない」と言われて、痛みを感じない人がどれだけいるか。逆に感じない人は、やっぱり懸けてない、懸ける気なんて端からない人かな。取材して、記事書く人は、この養老翁のことば、肝に銘じるべし、かな。
 翁は、人間の狭い了見を超えた、メタ視点があることを自覚せよ、と言います。締めは、こうなります・・・

 別有天地非人間。「べつに天地あり、ジンカンにあらず」。李白の山中閑居という詩である。世間だけが世界ではないよ。自然というものがあるではないか。李白はそう詠う。